●徳川家康からの血が近かった徳川吉宗
山内 徳川家康と徳川吉宗の関係ですが、これがなかなか面白い。吉宗はなぜ8代将軍に継いだのかという問題に関わってきます。
7代将軍・徳川家継が幼くして亡くなったので、吉宗編の1話目でもお話ししましたが、そこで徳川秀忠から続く血が絶えました。その結果、秀忠、家光から続いてきた徳川の嫡統が維持できなくなりました。
実際は、4代将軍・徳川家綱までは嫡統できたのですが、家綱が死んだ後、彼には子どもがいなかったので、弟が後継となったのです。
ここで一つ“ズレた”ということもいえるけれども、秀忠の血はつながり、家光の血もつながったということです。徳川綱吉の後に、綱吉と家綱の甥であり、甲府宰相である弟・綱重の息子だった綱豊が、6代将軍・家宣になりました。
以後、家宣の息子・家継が継いだので、嫡統に戻ったという考え方をします。
―― なるほど。
山内 ですから、横道にそれたのは綱吉です。ですが、それが戻り、家宣と家継は父子で相続がなされたので、嫡統なのです。ところが、これが家継で途切れてしまったために、徳川の本家(宗家)をどうするか、ひいては征夷大将軍の血をどうするのかという問題が出てきました。
「吉宗がなぜ将軍になったか」について、意外と皆が気づいていないことがあります。御三家には家康の血が入っており、本家で秀忠の血が途絶えたので、もう一度、家康にまでさかのぼろうと考えたのです。家康の晩年に生まれた子が、尾張の義直、紀州の頼宜、水戸の頼房の3人で、それぞれが後に御三家となります。御三家があったために、嫡統が途切れても、もう一回、将軍の血に戻すことができたのです。
その際に、吉宗が有利だったのは、吉宗が家康の曾孫だったことです。家康の子どもが頼宜、その頼宜の息子が光貞で家康の孫となります。そして、光貞の子どもが吉宗なので、吉宗は家康の曾孫になります。
ところが尾張家ですが、当主だった継友は家康の玄孫でした。ここが大事なところですが、尾張家は嫡統できたのですが、藩主の吉通の後、五郎太の時代になったとき、五郎太が将軍・家継よりも若い歳で死んでしまいました。おそらく毒殺だった可能性が高いのです。ここで嫡統が途絶えて、叔父の継友に戻るのです。
本来であれば嫡統の系譜であり、しかも五郎太の母親は京都に家がある由緒正しい人間でした。ですが、五郎太が死んでしまい、系譜が叔父に戻ったことで、「嫡統から外れた」と考えられたのです。
紀州家でも、嫡子(綱教)が死に、その次にもう1人(頼職)死んで、3番目に吉宗が当主になり、兄弟で相続していきます。いずれも兄弟相続であって、甥から受け継いだわけではありません。(尾張の場合は)吉通の子どもが受け継いだあと、その叔父に戻るという意味で、血が非常に遠くなったと考えます。「尾張様はそこで嫡統の血から外れた」というわけです。
したがって競争条件の中で、吉宗はまず玄孫ではなく一代早い曾孫であることから、家康に近い血を持っている。もう一つは、「従来の系譜で当主(甥)が死に、その叔父が後を継ぐというのは順逆であるから、あり得ないことだ」となったのです。
●尾張徳川家が将軍を出せなかった理由
山内 それから、「尾張家は御三家筆頭でありながら、なぜ将軍を出さなかったか」という問題があります。これは実は、初代の義直から幕府との関係が良くなかったのです。彼は尊王家であり、自ら『神祇宝典』という本を書いたりするなど、神道にも非常に通じた人でした。
ですが、「御三家筆頭の仕事とはそうではないだろう。徳川宗家にどう守っていくか、どう盛り立てていくか、どう支えていくか、ということが大事なことなのに、尊王、神道などに傾倒するのは筋違いではないか」といった批判があったのです。
義直は、自分が直接将軍になれないので、尾張藩(名古屋)の特異な位置――京都との距離で力を示そうと思ったのでしょう。
―― なるほど。
山内 今でも名古屋という場所は面白いですね。京都でも東京でもない。同じように当時も、江戸でもなければ、京都でも大坂でもなかったのです。しかし、ただの地方都市かといえば、そうではありません。新興都市ではありますが、織田信長以来の伝統があり、福島正則も城主となり、清洲もあり、信長の父・信秀(のぶひで)もいるなど、戦国時代に由来する立派な城下町である、という自負があります。
そういう点で、名古屋的な一種の誇りと、徳川宗家を継げない思いなど、いろいろなことがない交ぜになって、尾張という独特な気風をつくっていきます。
―― 誇りと屈折感がない交ぜになっているのですね。
山内 その後の藩主たちも、なかなか面白い人が出てきま...