●将軍家はシステムで運営していく
山内 もう1つ、徳川吉宗の人間としての素晴らしさがあると思います。吉宗は決して次のことを語ろうとはしませんでした。それは吉宗の、父として、それから人間としての感情です。いわばハンディキャップのある子どもに対する愛おしさと、そのような子を自分が生きている間にきちんと面倒見なければいけない、という思いです。
優れた臣下や家臣たち(老中と側用人、御側御用取次といった人間)がいて、実際の政治を行っていくシステムをつくる。そして、聡明な田安宗武がいて、御三卿の元である田安家をつくる。その小次郎(宗武の幼名)がいて、兄を補佐すれば、きちんとした統治ができるだろう。つまり将軍家は、人間ではなくシステムで運営していくのだ――。
そういう考えが吉宗にあったのではないでしょうか。ヒューマニティのある人間・吉宗と、非常に冷徹な将軍である政治家・吉宗の2つが巧みに出てきたというところが、家重が継承したバックグラウンドではないかと私は思っています。
―― 同じような例で、例えば明でいうと、永楽帝という次男が長男を滅ぼしていく。唐でいうと、第2代の李世民(太宗)がそうですね。ああいったことが起こると家が乱れるということを、家康にしても吉宗にしても、よく知っていたのでしょうか。
山内 彼らは歴史をよく学んでいますからね。唐の李世民(太宗)の例が出たけれど、まさにそうです。あまりに優れた弟が生まれると、上の凡庸な兄、あるいは平凡な兄たちはかすみます。かすむだけではなく、優れた弟が「自分が統治したほうがいい」となっていく。実際、結果として太宗の政治は「貞観の治」といって素晴らしいのですが、始まりは「玄武門の変」でした。
―― そうですね。玄武門の変です。
山内 兄たち2人を殺し、父・李淵に対して「自分を後継者として皇帝に」と要請しているわけです。それが皇帝継承のあり方としていいかどうかは、また別問題ですね。
実際、田安宗武の場合も、そういう話はあったと思います。老中の松平乗邑左近衛将監乗邑は非常に優れた政治家だったけれども、吉宗の意思に反して「徳川家重ではなくて宗武を将軍に」という考えでした。どうやら吉宗にもそのように言ったらしい。そうすると吉宗が、それに対して不快感を持ったという話があります。
●徳川家重を後継にするための情報加工力
山内 田安宗武は「兄上は率直に言って愚鈍であるから、自分こそが将軍を継ぐにふさわしい」と思って父親にそう言ったということです。
ただ本当にそうだったかは、実にまた味わい深い問題です。ある資料に出ているのですが、吉宗がある日、宗武を呼んで、長く話していたというのです。「何を話しているのだろう」とみんな訝しく思っていた。そうすると、「父上のそのような仰せに従います」と言って、快活な顔で出てきました。それから間もなく、先ほどのようなセリフ――つまり「将軍職を継ぐのは私こそがふさわしい」ということ――を口にしたということです。
つまり、吉宗は何を言ったか。これは推測や解釈がずいぶん入ってくるのですが、「1つ、因果を含んでくれ」ということではないでしょうか。「私としては、後継は家重だ。だが家重を後継にしては問題も起きるだろう。おまえが『兄をぜひ』という方向で言ったとしても、部下や家臣たちは承知しないだろう。だから……」という筋書きがあった。そこで宗武が「私のほうが兄よりも」と言う。すると吉宗の怒り、家重の怒りを買うのは必定なので、宗武を引っ込めることができる。こうして、「少し謹慎せよ」という形で、家重へのソフトランディングを図っていったのではないか。
家重はそれで将軍となり、家臣たちも「宗武様(田安様)はどうもそういういやなところもあって」となる。このような説もあります。
このレベルの問題はなかなか分からないところがあります。ただ、いずれも優れた人物であった田安宗武とその父の吉宗が、ただ単純な理由で将軍を家重に任せたとも考えられません。
だけど、やはり先ほど言った2つの理由で、家重に任せたかったけれども、それには周りを説得しなくてはいけないでしょう。その時に、田安宗武が責めを負うような形で、兄へという流れをつくったのだろうという説もあるのです。
―― なるほど。
山内 やはり吉宗ほどの人物になると、そういうことも考えられるでしょう。
こういうことを含めて、情報というものは収集だけではなく加工も大事なのです。自分に有利となるように加工していくのです。
―― なるほど。加工も大事ですね。
山内 加工も大事でしょう。情報を得て、それが正しい情報ならば歪めて、悪い情報(アングラ情報)を流す。シーズンになると、どこかの国の周辺では頻繁に繰り返されます。選挙や首相指名、...