●9代将軍に指名された徳川家重は言語障害と頻尿症だった
―― 今日は徳川家重(9代将軍)の話をお聞きしたいと思います。家重の在職期間は、1745年から1760年です。
まず山内先生にお聞きしたいのは、吉宗ほどの人が、なぜ言語障害があったともいわれている家重を後継に指名したのかという問題です。私の考えるところでは、その次の孫である家治(10代将軍)は非常に英明な君主であり、吉宗自らが育てました。そのため、家重が将軍の間は自分(吉宗)がサポートできるという考えで、そのようにしたのではないか。そのあたりの背景を、ぜひお聞かせいただければと思います。
山内 この問題には、「徳川将軍家」を知るときの非常に大事なポイントが含まれています。武家方での相続は、正嫡(正室から生まれた男子)が絶対です。厄介なのは、側室から先に男子が生まれて、しばらくして正室に男子が生まれるケースです。
分かりやすくいうと、吉宗の場合はまずこの正嫡を重んじました(編注:ただ実際に正嫡はいなかった)。そして、先に生まれた男子が家重だったのです。対する宗武は、いかに聡明であっても、後から生まれた男子です。これが決定的に大きなことなのです。吉宗は正室を後から娶るわけで、最初は紀州にいた時に娶った側室がいました。この側室から生まれたのが家重です。
その家重は、生まれながらに言語に障害がありました。これについて、アレクサンドル・プラーソルというロシア人の学者が面白いことを言っています。彼は家重を、(ロシア語を直訳的に訳すならば)「音節がよく分節せず、はっきり聞き取れない言語活動をする人」と言っています。きちんと音節が分節化しないというのは、はっきりと音節(音)を発音できないということです。だから曖昧になってしまう。言語的表現において障害があることを、言語学的にややくどい言い方をしているのです。
それから2つ目として、彼は頻尿に苦しんだ人でした。
―― そうなのですか。
山内 プラーソルは『徳川の将軍たち』という本を書いているのですが、その中の家重の話は興味深い。当時、駕籠で鹵簿(ろぼ)を組んでも、およそ1時間から1時間半で、江戸城から上野の寛永寺まで行くことができました。その距離はおよそ5キロメートルだといいます。プラーソルは、「そこまで臨時に23カ所、小便所(お手洗い)を設けた」と書いている。
私は、これをロシア語で読んだ時に、数字が間違っているのではないかと思って不安になりました。2、3回は確認したのです。まず本を読んだときに、「本当に23かな」と確認した。そして、本を書くときにもう1度、テキストにあたって確認した。確かに23と書いてありました。
しかしながら、私の持っている資料をよく調べると、この23は多い。宝暦5年の寛永寺参詣のケースでは、3カ所でした。20はいくらなんでも多いと感じます。であるにしても、上野の寛永寺に行く間に3回もお手洗いに行くというのは、よほどの頻度ですよね。
―― そうですよね。
山内 家重は、この頻尿症と、それから音節分化ができないという言語障害を持っていました。ですが家重は、先に生まれた子ども、長男であるといってもいいでしょう。そして、紀州で生まれている。まだ吉宗が紀州藩主という一般の大名だった時の子どもです。ということで、そこにはまず「長幼の序」ということと、正嫡という問題がありました。
●「順序は重んじられなければならない」
山内 それから、ここがやはり親としての吉宗の偉さです。世間的には「なぜ次の将軍が田安宗武でないのか」と誰でも疑問を持つでしょう。その際、「もし徳川の家が、しかも将軍家たるものが、家の勝手な事情や子どもの生まれつきの性質を理由に後から生まれた子どもを将軍にしたとして、全国の大名たちも同じようなことをしたらどうするのか。そうすると、嫡子と庶子、あるいは最初に生まれた子と2番目に生まれた子以下のお家騒動や争いごとになる。だから、相続や将軍職は、正嫡(嫡庶)あるいは兄を優先させなければいけない。それが徳川である」というのです。
実際、似たようなケースは2代将軍秀忠の時の、家光と忠長にもありました。秀忠は、駿河大納言忠長を偏愛していました。ところが家康はそれに対して、きちんと嫡子(家光)に竹千代という自分の名前を与えました。将軍家の嫡子は歴代、竹千代を名乗ります。だから4代将軍の家綱にも、家光は竹千代の名を与えています。
竹千代の名をもらった人間に障害があるからといって、それ以外の人間が後継となったらどうなるか。要するに家康は、それを言いたかったのです。家光は小さい頃はポワンとした子で、利発そうではないけれど、忠長のほうは目から鼻に抜けるくらい賢そうで、実際賢かった。だから家光は割を食って、廃嫡されそうに...