●時代の変化を捉えていた田沼意次
山内 それから、江戸が大きくなっていったときに、江戸という都市というものの繁栄や生産、あるいは税収をどのようにしていくか。つまり、商人に対して重農政策ではなく重商政策を取り、都市の商人や消費者をいかに新しい生産と消費のシステムに入れていくか。そして、そこから幕府が税を吸収していくか。このような時代に入ってきたことを、幕府の新しいビジョンとして考えなければいけない時代に来ました。
その結果として、徳川家治、田沼意次は自ずとコンビとなって、互いに必要としたのです。
この関連でいえば、重商政策の非常に大きな観点は、やはり国を開くということです。折からロシアの進出が目立ち、ロシア問題をどう処理するかということが、田沼の頃から江戸幕府の大きな政治課題になってきました。これは松平定信にとっても大きな問題になります。
簡単にいうと、田沼は国を開く開国政策を採ろうとしました。定信は開国を胸に秘めながらも、わが国の門閥政治家、将軍の一番オーソドックスな政策の継承者として、鎖国にこだわらざるを得ないところがありました。重商政策より重農政策という古典的な政策です。それに対して、非常に斬新で革新的な重商政策と開国政策へ舵を切るといった時代の要請に出現したのが田沼だったのでしょう。
―― ものすごく大きな時代の変わり目ですね。
山内 その変わり目を理解したことが大きいですね。
―― 守旧派が数多くいる中で、時代の変わり目を理解したという意味では、すごい人ですね。
山内 それは彼の人間関係の広さ、幅の広さ、交友範囲の広さにあるのだと思います。
田沼は自身が身分の低い下級武士です。といっても紀州の直臣であり、かつ、やがて徳川の直参になっていく家柄です。そして父親が吉宗の側に仕えていく。その子ども(いわゆる2代目)になるわけです。しかし門地の高さという点では、酒井、本多、井伊、榊原、大久保等々から比べれば及びません。
老中を務められる家柄ではなかったけれども、そうであるがゆえに、政策、発想、ビジョンという点で囚われないものを持っていた。囚われないものを持っていた中で、彼のいろいろな発想や交友範囲が広がっていった。ここから、平賀源内などの人間を使うといった、普通の政治家ではなかなかできない発想になっていくのです。
●能力は優れていたけれど、運が悪かった田沼意次
山内 一口に官僚集団といっても、江戸時代においては、まったく才能を必要としない世襲だけで成り立っていく官僚もいます。結局、日本でもどこでもそうなのですが、能力のある官僚は出世し、能力のない人間は出世しない。基本はそうでしょう。運や人間性、魅力などさまざまな要因はあるけれど、基本はやはり能力です。
田沼の場合、門地には恵まれていないけれども、能力という点で優れていました。それから発想力です。 ですが、政治家も官僚も、どのような時期に自分が腕を振るえるかということで、タイミングの良い時期、悪い時期があるのです。だから、ビジョンが良くても、タイミングが悪ければ成就しないこともある。
例えば、印旛沼の開拓は大変大きな事業で、印旛沼開拓のために少なくとも15万石以上の増収を図ろうとしました。印旛沼の開拓は非常に魅力的なのです。そして事業が進み、いよいよ完全な成立の直前までいったときに、洪水が起きて利根川が氾濫します(天明の洪水)。従来の水深量ならば問題なく太平洋に水が流れていったところ、当時「浅間焼け」といわれたように浅間山噴火により火山灰が利根川にも降り積もり、河床を高くしていたのです。つまり、水深が従来と比べて浅くなっていた。だから水の流れが、まさに鉄砲水が来るといったようになっていた。
実は「浅間焼け」と因果関係があり、それが利根川を氾濫させていくのです。利根川が氾濫した結果、印旛沼でせっかく造っていた堤、そして利根川から内海(東京湾)に水が流れ込んでいく形で造っていた排水システムが一気に崩壊したのです。
干拓して、いよいよ本格化という間近まで来ていたのが、自然災害で一挙に無残にも破壊された。その結果、田沼はあたかも「印旛沼という無謀な干拓事業に手を出した人間だ、山師だ」と言われます。
山師は、実は決して悪い意味ではありません。山師は、金や銀山を探る、あるいは1発当てようといった投機の代名詞に使われたりするので悪く考えられがちですが、そうではない。新しい事業、新しい着想に目を付けて実現しようとする、アンビシャスな計画やプランを持っているプランナーたち、これが山師なのです。
この山師が、不幸なことに悪い形で、田沼や源内に使われるようになった...