●徳川家康も実践した「四天王」という盤石の構図
それでは、『貞観政要』巻第五、論仁義第十三、第二章、ここから行きます。
貞観の初めですから、帝位に就いてすぐですが、太宗がくつろいでいました。両側には房玄齢(ぼうげんれい)とか杜如晦(とじょかい)、魏徴(ぎちょう)、王珪(おうけい)がいつもいるわけですが、この4人というものから徳川家康は学び、4人の側近を家康もつくりました。結局、この太宗も家康も、自分を中心にして東西南北に臣下がいるという、この図式が一番安定していることを知るのです。
皆さんも日曜大工で椅子をつくろうとしたら、5脚が一番いいのです。5脚が一番安定しています。人間の集団でも、自分が真ん中で周りの4人が部下というのが一番いいのです。ですから、四天王という発想はすごく重要です。
周の時代の武王は、その前、周王朝の前といえば殷の時代で、殷の時代の一番最後に、暴虐非道の君主である紂の乱を平らげて天下を取りました。
秦の始皇帝も、周の衰えにより、春秋戦国時代のBC770年から221年までの500年間が戦国時代で、そのときに「周の衰へたるに乗じて、遂に六国(りっこく)を呑む」と言っているように、6つの国を併合して、それで統一国家をつくって平和にしました。
「其の天下を得たる」ことには、要するに周の武王も秦の始皇帝も変わりません。「何ぞ祚運(そうん)の長短は」というのは、「祚運」は国の福運の長短で、要するに秦の始皇帝は15年で終わりましたが、武王がつくった周は700~800年ぐらい続いたわけです。そういう意味では、この長短はどうしてそうなったのかということです。
ここで質問しているのは、長期政権はどこを注意しなければいけないのか、何によって短命になるのかという、この「問う」ということが重要なのです。
例えばトップが、「長期政権というのはここがだめで、要するに長期政権はここがいい」と言ったり、「短期政権ではここがだめだ」と言ったら、訓告になります。訓話になってしまいます。
そうではなく、聞くということが重要なのです。「なぜかね?」と。そうすると、臣下としては答えざるを得ませんから、頭脳を2回転、3回転、4回転とさせざるを得ません。臣下の頭を使わせるということが、すごく重要だということを表しています。ですから、自分はすでに答えが分かっていても、「なぜなんだろうね?」とか、「これはどういうふうに受け取ったらいいんだろうかね?」と、「問う」ということ、「質問する」ということが、リーダーとして非常に重要なことなのです。
そうやって問うたら、「尚書(しょうしょ)左僕射(さぼくや)」の「蕭瑀(しょうう)」という人が進み出て言います。尚書左僕射というのは尚書省の長官で、財務大臣のようなものですが、彼は紂王が短かった原因としてこう言います。「紂、無道を為し、天下、之に苦し」んでいました。「故に八百の諸侯」というように、他のいろいろな国のトップは、「期せずして会」して、期せずしてあんな暴虐非道の帝王は困りものだから、みんなで引きずり下ろす必要がありますというのです。
「期せずして会せり」。したがって、ほとんどがもう紂王にうんざりで、周の武王が討とうとするときに、大方の人、つまり国民全体もぜひ討ってほしいとなっていましたから、「八百の諸侯、期せずして会せり」になったのです。そのようになり、「周室、微なりと雖(いえど)も、六国、罪無し」です。そして「期せずして会せり」で、みんなが討ったのです。
ところが、「会せり」の次に、「ところが」と入れていただくとよく分かります。ところが、周が衰えて、要するにそれに乗じて秦が天下を取ったときは、「周室、微なりと雖も、六国、罪無し」で、まったく統合するほうが悪いという、統合されるほうに罪があったわけではありません。罪深い人間をみんなで討ちましょうというのは、ケースが少し違って、秦の始皇帝が六国を併合したというのは、別に悪かったからではなく、罪があったからではないのです。
●根幹に仁と義があるほうが長期政権になる
「秦氏、専ら智力に任じて、諸侯を蚕食(さんしょく)」。つまり、言ってみれば罪がなかったわけです。ですから、いろんな誘いに乗って、秦の始皇帝のセールストークに乗って、「それはいいですね。では、みんなで一緒に集合体をつくりますか」と言って、アライアンスやコラボレーションを活発にしたというのが、この「遂に六国を呑む」ということなのです。
したがって、秦氏、つまり始皇帝は、その時、誘いの言葉をしっかりと守らなければならなかったのです。しかも、六国を束ねた瞬間に、「専ら智力に任じて」というように、言ってみ...