●正殿の隣に文治政治を象徴する「弘文館」を建設
それでは武断政治から文治政治になるということですが、これはどのように進めていったのでしょうか。そこが表れている文章が次です。崇儒学第二十七、第一章というところです。
「太宗初めて祚(そ)を践(ふ)み」とありますが、これは「践祚(せんそ)」といって朝廷の頂点に登ることを言います。これは覚えておいたほうが便利です。践祚をもってとか、践祚してとか、そのように言います。天主の位に就くこと、すなわち即位をしたということですが、そのときに正殿があります。朝廷の本館のようなもの、または本社みたいなものです。
本社の建物、つまり本館の建物がありますが、その左にまったく同じ規模の建物があるということです。例えば、総理官邸があって、もう一つ総理官邸と同じ規模の建物を建てたのです。なぜでしょう。それは弘文館という宮殿ですが、実は宮殿と言いながら、これは学校なのです。武断政治から文治政治に変わることを実感させるためには、どうしたらいいかを徹底的に考えたのではないでしょうか。
そのときに、武器弾薬とか戦いに使ういろいろなものを華やかに、いってみれば軍事パレードのようなことをやるのですが、ということは、まだ武断政治をやっている国ということです。そのようなことから、文治政治になったことを象徴するために何をするかというと、政治のシンボルである総理官邸と同じくらいの大きさの学校がその隣にあるとしたら、この政権はそちらにすごく力が入っているということが、誰が見ても明らかになるのです。
したがって、この弘文館というものを隣に建てた瞬間に、「ああ、太宗はもう戦いはやめようと言っているんだな。これからは人格・教養だな」と、誰もが思うようにしたわけです。
●儒学を国家運営のベースにした徳川家康
そこで、徳川家康はこれをどのようにやったのかというと、ご承知の通りに、家康は同じことをやるわけです。(のちに)上野の山に学問所をつくります。今のお茶の水のところに移ってから「昌平坂学問所」と言いますが、それまでは「昌平黌(しょうへいこう)」というものです。昌平とは何かというと、孔子の出身地です。ですから、これからは儒学を重視して国家を運営していくということです。このように、太宗と同じことをそのまま...