●徳川家康は太宗から法整備の重要性を学んだ
もう一つ、徳川家康も太宗も非常に力を入れたのが、法整備です。これは隠されてあまり言われませんが、要するに法整備をしました。法律をどのように扱ったのかということを、論刑法第三十一、第二章、ここで言っていますから。
「貞観元年」ですから、太宗が位に就いてすぐです。「太宗、侍臣(じしん)に謂ひて曰く」というように、部下にこう言ったというのです。「死する者は再び生かす可からず」、一度死んでしまった人間を生き返らせることはできない。これは重大問題だというわけです。したがって、「法を用ふること、須(すべから)く務めて寛簡(かんかん)を存すべし」で、「寛簡」は寛大です。それから簡約、重点主義ということです。これを努力しなければいけない、努めなければいけないというのです。
「古人云ふ、棺(かん)を鬻(ひさ)ぐ者は、歳の疫あらんことを欲す」とは、棺桶屋はその年に疫病が流行ることを心の中では願っているということです。疫病が流行って死者が出ないと棺桶が売れないから、疫病が流行らないかなと棺桶屋は思っているというわけです。
それは「人を疾むには非ず」で、人を憎んでそう言っているのではなく、「棺の售(う)るるを利するが故なるのみ」というように、棺桶が売れることを望んでいるからだということです。世の中は全てそういうもので、自分の商売によって、一見その商売がうまくいくということは、人間が不幸になることだってあり得るのだということです。
その最たるものが、法律を扱う人間なのだと言っているわけです。これはすごいことです。法律を1つ間違って使われたら、死刑になってしまいます。そういう例は歴史的に非常に多く、実際にそういうものなのだということです。
ですから、法律を扱う人間は、このような棺桶屋になってはいけませんが、知らず知らず法を扱ってくると、法を使いたくなって、この刑罰に処したくなってしまうのだということを、ここで言っているのです。ですから、そこをいつも冷静に、自分を客観的に見る必要があり、それが重要なのです。
例えば、犯罪人を取り締まる役割の人に、仕事に励むように言ったとき、それがいかに検挙率を上げるかということだけになってしまうと、無罪の人間も構わず検挙して、「去年は30人、今年は100人」と言いたくなってしまうので、そういうことを忘れてはいけないということです。これもすごいことです。
●法を公平無比に運用するための要点
「今、諸司」、あなたがた司法官は、「一獄を覆理するに」、一つの裁判を審議するのに、「必ず深刻を求め」、本当にひどく厳しい取り扱いをすると、ひどすぎる取り調べに耐えられなくなって、誰でも「本当は無実だけれど、しょうがない、イエスと言ってしまおうか」ということになってしまうのです。
「其の考課を成さんことを欲す」、この考課というのは自分の業績です。ですから、司法官が裁判で何人無罪にしたのかというのであればまだしも、何人に罪科を与えたのか、罪にしたのかという競い合いになってしまう、ということを言っています。
「今、何の法を作(な)さば、平允(へいいん)ならしむるを得ん、と」、つまり、どのような方法を行えば、公平で適切な裁判になるのかということを、太宗は側近に聞いたわけです。
「諫議(かんぎ)大夫(たいふ)王珪(おうけい)」は、前にも出てきた王珪ですが、次のように言います。「但だ公直良善の人を選び」、そのためには公平無比で正直な人を選んで、「良善」、心がけの良い善人を、悪を推奨するような人ではなく善を推奨する人を選ぶことです。
そして「若し獄を断ずること允当(いんとう)なる者には」、そのような刑罰を与えることが道理にかなうようになると、「秩(ちつ)を増し金を賜はば」というように、俸給を上げ、さらに報奨金も出して、よくやったと言って褒めていくのです。そのように公平無比でやっている人がいれば、どんどん褒めていく必要があるわけです。
「即ち姦偽(かんぎ)」、「姦偽」というのは、よこしまで偽りということです。「自ら息まん」、要するに法の専門家なのですから、専門家が素人に対して、「それは何々条で罰せられていることだから、君は重大な罪を犯した」などと言われれば、素人は何も分からないですから、「そうなんですか」ということになってしまいます。そのように、よこしまで偽りをする者がいるからいけないので、そういう者がなくなればいいと言っているわけです。
それに対して、「太宗又曰く、古者(いにしえ)、獄を断ずるには...