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教育のトップを変えず幼年教育も徹底…学び重視の見事さ

徳川家康と貞観政要(4)学問第一と江戸の幼年教育

田口佳史
東洋思想研究家
情報・テキスト
武断政治から文治政治に転換して「学問を第一」とした唐の太宗に倣い、徳川家康は学問所の創設に尽力し、その後、幕末まで教育のトップを変えることはなかった。そのおかげもあり、江戸の幼年教育はとても充実していた。3歳から素読を始め、藩校や寺子屋に通い、四書五経を学ぶ子どもたち。そうして共通の教養を身につけた日本の教育レベルは世界でもトップクラスだった。(全9話中第4話)
時間:12:04
収録日:2020/01/11
追加日:2023/04/02
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≪全文≫

●あえて後見役を選択した理想の政治家


 もう1つやったことがあります。その学校が文治政治に対応したということに関するものです。それが次の第二章です。

 「貞観二年」ですから、太宗が就任して2年目で、「詔(みことのり)して」、詔勅を出して、「周公を先聖と為すを停(とど)め、始めて孔子の廟堂を国学に立て」とあります。これまでは、周公という人がシンボルとして存在していました。

 周公はどのような人かをいう前に、周王朝が文王、武王の時、これを「文武両道」と言いますが、文王、武王という親子、特に武王によって周王朝ができます。孔子はまず一番に周王朝を理想としました。しかし、武王は長年の苦労が祟って、国家を建設した後すぐに亡くなってしまいます。

 そうすると、(文王の)次男が武王、四男が周公旦(しゅうこうたん)という人ですから、それで武王の次の地位に立つことになるのですが、いろんな弊害が起こります。そのようなことから、周公旦は、武王の息子を次の帝王に立て、自分は後ろにいて、後見役という立場で政治を見ていきます。周公という人は、そういう政治家なのです。理想の政治家です。

 ですから、太宗の前のお父さんである李淵(りえん)という人は、政治家ということを第一義に考えました。ところが、太宗は、文治政治にして学問を第一にするというわけですから、やはり学問のトップを据えなければいけないということで、「始めて孔子の廟堂を国学に立て」というように、孔子廟をつくります。今、横浜の中華街に行くと関帝廟というものがありますが、あのような廟です。つまり、お墓です。

 そのようなものを建てて、「旧典に稽式(けいしき)し」、つまり伝統の古いしきたりを調べて、きちんとそれを実行するわけです。そして、「仲尼(ちゅうじ)」というのは孔子の本名ですから、「仲尼を以て先聖と為し」、すなわち(孔子を)まずトップの聖人とします。「顔子」というのは、孔子が一番愛した顔回です。一番出来のいい「顔回を先師と為し」というように、聖人のシンボルとして孔子、それから教えるほうのシンボルとして顔回、この2人を新たなシンボルに変えたのです。


●教育のトップを変えなかった徳川家康の意図


 このシンボリックなものを変えるということも、何に力に入れているかということがよく分かるわけです。そして、「而して辺豆(へんとう)干戚(かんせき)の容」、この「辺豆干戚」とは、言ってみれば朝廷内の儀式とか慣習、そういうものの姿で、「始めて茲(ここ)に備はる」と、それを整えました。

 朝廷の中が礼儀知らずであったり、儀礼というものができていなければ、民間ができているということはありません。ですから、要するに家康はどうしたかというと、学問所を整えました。それからどうしたかというと、藤原惺窩の一番弟子が林羅山ですが、林羅山に対して「君、これから文科大臣を務めてくれ」と言って、幕末までずっと林家が幕府の文科大臣を務めます。要するに変わってはいけないわけで、ずっと林家が学問を担います。ですから、他の大臣はどんどん変わっていいけれども、文科大臣は変わってはいけないというくらいに力を入れたのです。家康も、です。そこはすごいことです。

 それから儒家の思想です。家康の側近の2人は僧侶です。天海僧正も、金地院崇伝も、2人とも僧侶で仏教です。ですから、仏教国になっても不思議ではありませんでした。ところがそうではなく、太宗を見ていると儒教が非常に政治に向いているということで、そこから儒教を国是にしたというわけです。このことからも、『貞観政要』の影響がものすごくあったということが分かります。

 そして「是の歳、大いに天下の儒士を徴(め)し」とは、どんどん優秀な儒者を集めて、「擢(ぬきん)づるに不次を以てし」、つまり順序次第にこだわらずということで、キャリアがどのぐらいあるとかないとか、そういうことではなく、人間というものを見て、立派な人間こそどんどん抜擢していくわけです。そのようなことをして、「布きて廊廟に在る者甚だ衆(おお)し」といっているように、朝廷に列する儒家、儒者が非常に増えたということが分かります。

 次の「学生の一大経に通ずる已上は」というのは、学んでいるほうの人間も、この『礼記』とか『左伝』、これを「大経」と言いますが、その一大経に精通したものが、学生の中から出てくると、「君、それを教える専門家になってくれ」と言って地方にも派遣します。そのように、よい学生は全部、どんどん教えるほうに回すのです。「咸(ことごと)く吏に署するを得たり」というのは、そういう意味です。


●江戸時代に幼年教育が充実していた理由


 「国学、学舎を...
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