●あえて後見役を選択した理想の政治家
もう1つやったことがあります。その学校が文治政治に対応したということに関するものです。それが次の第二章です。
「貞観二年」ですから、太宗が就任して2年目で、「詔(みことのり)して」、詔勅を出して、「周公を先聖と為すを停(とど)め、始めて孔子の廟堂を国学に立て」とあります。これまでは、周公という人がシンボルとして存在していました。
周公はどのような人かをいう前に、周王朝が文王、武王の時、これを「文武両道」と言いますが、文王、武王という親子、特に武王によって周王朝ができます。孔子はまず一番に周王朝を理想としました。しかし、武王は長年の苦労が祟って、国家を建設した後すぐに亡くなってしまいます。
そうすると、(文王の)次男が武王、四男が周公旦(しゅうこうたん)という人ですから、それで武王の次の地位に立つことになるのですが、いろんな弊害が起こります。そのようなことから、周公旦は、武王の息子を次の帝王に立て、自分は後ろにいて、後見役という立場で政治を見ていきます。周公という人は、そういう政治家なのです。理想の政治家です。
ですから、太宗の前のお父さんである李淵(りえん)という人は、政治家ということを第一義に考えました。ところが、太宗は、文治政治にして学問を第一にするというわけですから、やはり学問のトップを据えなければいけないということで、「始めて孔子の廟堂を国学に立て」というように、孔子廟をつくります。今、横浜の中華街に行くと関帝廟というものがありますが、あのような廟です。つまり、お墓です。
そのようなものを建てて、「旧典に稽式(けいしき)し」、つまり伝統の古いしきたりを調べて、きちんとそれを実行するわけです。そして、「仲尼(ちゅうじ)」というのは孔子の本名ですから、「仲尼を以て先聖と為し」、すなわち(孔子を)まずトップの聖人とします。「顔子」というのは、孔子が一番愛した顔回です。一番出来のいい「顔回を先師と為し」というように、聖人のシンボルとして孔子、それから教えるほうのシンボルとして顔回、この2人を新たなシンボルに変えたのです。
●教育のトップを変えなかった徳川家康の意図
このシンボリックなものを変えるということも、何に力に入れているかということがよく分かるわけです。そして、「而して辺豆(へんとう)干戚(かんせき)の容」、この「辺豆干戚」とは、言ってみれば朝廷内の儀式とか慣習、そういうものの姿で、「始めて茲(ここ)に備はる」と、それを整えました。
朝廷の中が礼儀知らずであったり、儀礼というものができていなければ、民間ができているということはありません。ですから、要するに家康はどうしたかというと、学問所を整えました。それからどうしたかというと、藤原惺窩の一番弟子が林羅山ですが、林羅山に対して「君、これから文科大臣を務めてくれ」と言って、幕末までずっと林家が幕府の文科大臣を務めます。要するに変わってはいけないわけで、ずっと林家が学問を担います。ですから、他の大臣はどんどん変わっていいけれども、文科大臣は変わってはいけないというくらいに力を入れたのです。家康も、です。そこはすごいことです。
それから儒家の思想です。家康の側近の2人は僧侶です。天海僧正も、金地院崇伝も、2人とも僧侶で仏教です。ですから、仏教国になっても不思議ではありませんでした。ところがそうではなく、太宗を見ていると儒教が非常に政治に向いているということで、そこから儒教を国是にしたというわけです。このことからも、『貞観政要』の影響がものすごくあったということが分かります。
そして「是の歳、大いに天下の儒士を徴(め)し」とは、どんどん優秀な儒者を集めて、「擢(ぬきん)づるに不次を以てし」、つまり順序次第にこだわらずということで、キャリアがどのぐらいあるとかないとか、そういうことではなく、人間というものを見て、立派な人間こそどんどん抜擢していくわけです。そのようなことをして、「布きて廊廟に在る者甚だ衆(おお)し」といっているように、朝廷に列する儒家、儒者が非常に増えたということが分かります。
次の「学生の一大経に通ずる已上は」というのは、学んでいるほうの人間も、この『礼記』とか『左伝』、これを「大経」と言いますが、その一大経に精通したものが、学生の中から出てくると、「君、それを教える専門家になってくれ」と言って地方にも派遣します。そのように、よい学生は全部、どんどん教えるほうに回すのです。「咸(ことごと)く吏に署するを得たり」というのは、そういう意味です。
●江戸時代に幼年教育が充実していた理由
「国学、学舎を...