●情がない政治はたまったものではない
次は、論仁惻第二十、第一章です。
これも貞観の初めです。太宗が帝位に就いてすぐに周りの側近にこう言いました。禁中(きんちゅう:皇帝がいる宮中)に召し出している女性、いわゆる大奥の女性ということです。その「婦人、深宮(しんきゅう)に幽閉さるるは」とは、まあ言ってみれば人質になっているような状態で、滅多に外に行ってはいけないことになっているわけです。
日本の大奥も同じで、外出禁止になっていました。それは要するに、幽閉されて閉じ込められているということで、「情、実に愍(あわれ)む可(べ)し」というように、自分の心情からすれば耐えられないので、そのようなことを私はやりたくない、と言っているわけです。
そして「隋氏の末年、求採することを已む無く」ですから、大奥勤めの女性をどんどん入れて、「離宮別館の幸御するに非(あら)ざるの所に至るまで」、たまに天子が行く離宮という離れがあり、夏の離宮とか冬の離宮があるのですが、そのようなところにも大奥ができて、そこにも幽閉されている女性がいるというわけです。
「多く宮人を聚(あつ)む」、宮人とはそういう女性で、「此れ皆、人の財力を竭(つ)くす」、その人たちを養うということは、この人たちは非生産的ですから、ただ費やすばかりの人です。その費用はどこから出ているのかというと税金です。ですから、人民が全部養ってくれているわけです。つまり、何かの足しになっているわけでもないのです。
そして、「今将(まさ)に之を」宮殿から「出(いだ)して伉儷(こうれい)を求むる」、自由にしてやって、それぞれ連れ合い(伉儷)を求めるということです。つまり、家庭生活を営みなさいという意味で、「任せんとす」と言っています。
「独り以て費を省くのみに非ず」は、朝廷の費用が莫大に必要ですから、それを省くだけではなく、「兼ねて以て人を息す」ということは、要するに人民の心の安らぎを求めているということは人情であると。政治には人情が重要であって、情というものがない政治などはたまったものではなく、何より人情が重要だということを言っています。
それは今の社会でいえば、AIに人情がありますかということでしょう。そのようなことを佐久間象山も言...