歴史上の出来事の本質を知るには、その真贋を見定めなければいけない。そのためにはどうすればいいのか。記述の異なる複数の本がある場合、いかにして真実を見極めるか。また、司馬遼太郎の作品が「歴史事実」として認識されていく傾向もあるが、「史料読解」という視点から見た場合、司馬遼太郎作品はどのように評価できるのか。講義終了の質疑応答編。(2025年4月26日開催:早稲田大学Life Redesign College〈LRC〉講座より、全7話中第7話)
※司会者:川上達史(テンミニッツ・アカデミー編集長)
≪全文≫
●史料の真贋を見極めるためにはどうすればいいか
【質問】
これまで悲劇と思っていた豊臣秀次の真相を聞いて見方が変わり、過去の出来事の本質を知るには、真贋を見定めなければいけないと感じた。そのためには同じ事柄について書かれた複数の本を読むのがいいのかどうか、アドバイスをお願いします。
中村 かなりポピュラーな史料、例えば先ほど言った(小瀬)甫庵の『太閤記』などが必ずしも正しくないということが、本をいろいろ読んでいると分かってくる。特に甫庵の『太閤記』は岩波文庫にも入っていて、國學院大学で日本史の教授を務めた桑田(忠親)氏が「太閤記について」という前書きを書かれています。
普通、上下巻の本では下巻の後ろに解説があるのですが、この本では上巻の前書きに、当時すなわち一時代前に戦国史の一流の研究家で、今はもう亡くなられた桑田氏が書かれた。
これはなぜ書かれているかというと、「この本は、偽文書が本物の文書のように書かれているので気をつけなさい」と言いたかったからです。秀吉の直筆の感状についての注意もあります。昔は、(戦場で)活躍した人が天下人から感状をもらう(慣例があった)。だから、感状を10枚も持っていると、属していた大名家をクビになっても、「私はこんな感状をもらっている」と言えば、次の就職先にまず苦労しないわけです。そういう感状を誰それに与えた(という記述があるが、)感状の文句自体が本物ではなく、甫庵がつくってしまった場合が多々あります。
ですから、「この本は気をつけて読みなさい。これは史料というよりも、一つのお話だと思って読んだほうがいい。この本を史料として小説などを書くと火傷をしますよ」ということを警告したいがために、桑田氏は上巻の冒頭に「気をつけろ」という小論を入れているわけです。
そのように、いろいろと史料をいじっているうちに、だんだんその良し悪しが分かってくるものなので、いじっている期間が少しあるといいかと思います。
●複数の本から真実を読み抜くには
【質問】
『太閤記』一冊があれば、次の本もさらに別の本も出版される。その状況で本を書こうと思うには、ある程度結論づけないと書けないわけだが、先生はどのように判断されるのか。はじめから「この人はこういうかたちだ」と見るのか、あるいは史料によって変わった点を書くのか、どのようなときに書か...