●「二条河原の落書」が意味するもの
兵藤 実際、楠木正成も名和長年も、建武の新政下では非常に高いポストに就きます。これが古くからの貴族には、不満で仕方がないわけですよ。
―― そうでしょうね。
兵藤 「二条河原の落書」を聞いたことはありますか。「二条河原の落書」は、後醍醐天皇の政治がいかにひどかったかということの証拠として、よく高校の教科書に載せられています。ですが、あれは嘘でしょう。
―― 嘘ですか。
兵藤 あれは、後醍醐によって既得権を奪われた貴族がその腹いせに後醍醐の悪口を書いた。そうとしか考えられない。
―― なるほど。確かにそう考えられますね。貴族の立場からすれば、氏素性も分からないような怪しい者が自分たちの上司になるのを許せるかという……
兵藤 まして、自分たちの伝統的な仕事をどんどん奪っていった。これは許しがたいことです。
―― その人たちの立場からすると、嫌な存在というか、憎悪を覚える対象でしょうね。
●なぜ日本で能力主義が根付かなかったのか
兵藤 日本には、そのような能力主義があまり根付きませんでした。例えば、日本は平安時代、中国の律令制を取り入れて、科挙を行っていたことがあります。中国の宋代では、すごく優秀な人、例えば百姓の親分の頭が非常に良くて出世した例は、全然珍しくありません。
―― そうですね。だからこそ、みな必死で勉強するというエピソードがあります。
兵藤 ちなみに、日本でそうしたことを経て出世したけれども、失敗した最も有名な人は菅原道真です。菅原道真は下級官吏で、いわゆる科挙のようなことを経て大成功し、どんどん出世して、なんと右大臣までなりました。当然、大臣のポストを独占していた藤原氏にとっては許しがたいことです。ですから大宰府に流罪になってしまう。それで怨霊になるという話になるわけです。
道真事件以後、日本の歴史において科挙のようなものを経て、あそこまで出世した人はいません。道真の事件で、いわゆる科挙は日本の国に合っていない、あれをやってしまうと日本の国は混乱して身分の秩序が壊されてしまう、とさんざん懲りたのでしょう。
道真が京都政界を追い出されて以降は、非常に保守的な王朝政治が続きます。家柄を重視する政治になっていく。それが崩れてくるのが頼朝の鎌倉幕府でしょうけどね。
―― そうですね。また新しい勢力が出てきます。頼朝がつくった政権はその後、北条氏が運営しますが、それが崩れる時に、今度は楠木のような存在がヒーローとして現れる。
兵藤 でも結局、足利に政権を奪われてしまいました。やはりそのあたり、日本において能力主義は難しいのでしょう。
ただ、足利尊氏には『梅松論』という本があります。『梅松論』の中で足利尊氏は、決して楠木のことを悪く言っていません。『太平記』にも書いてありますが、楠木が湊川で戦死したときに、足利尊氏は楠木の首を奥方のもとに送り届けているのです。決して嫌っているのではない。尊氏の度量の広さといったものも『太平記』には書いてあります。
後醍醐のような極端な政治をやってしまうと、日本人はその極端な政治について行けなくなってしまうのです。楠木正成がどんなに素晴らしい人でも、国政のトップに持ってくるのは少しやり過ぎではないか、という具合です。
―― 当然、反発がワーッと出てくるのですね。
兵藤 その点からいえば、尊氏はそれなりにバランス感覚があった人なのではないでしょうか。弟の直義の場合、頭良すぎるということで、それも問題ですしね。
●『太平記』は江戸文化や明治維新にも大きな影響を与えた
―― そうですね。ところで、乱世の生き方、激動期の生き方ということでいうと、楠木正成は本来であれば水銀の権利などを得て、地元の有力者としての人生をまっとうするはずでした。その人が後醍醐という、「天皇と民を直結させる」という強い思想を持った天皇が出てきたがために、それに翻弄される形で表舞台に登場した。
楠木はあくまで後醍醐に忠義を尽くし、自分は納得していない作戦を行いながら、天皇の周りがろくでもないことを言い出して、討ち死にせざるを得なくなる。先ほど、楠木は江戸時代に人気だったという話もしましたけれど、このあたりが日本人の心の琴線に触れるのでしょうね。
兵藤 ですから正成と後醍醐の物語が、吉田松陰、あるいは水戸光圀の『大日本史』、あるいは頼山陽の『日本外史』を通じて、幕末から明治初期に大変流通し、「一君万民」につながっていった。「一君万民」、全てのものが地位にかかわらず万民ということは、要するに「四民平等」ということですからね。
江戸時代までは身分制社会ですが、身分制社会を壊して「国民」というフラットな近代国家の形を曲がりなりにもつくりあげたのは、や...