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『太平記』は乱世における人間の処し方が学べる古典文学

『太平記』に学ぶ激動期の生き方(1)なぜ今『太平記』を読むべきなのか

兵藤裕己
学習院大学文学部教授
情報・テキスト
『太平記』(兵藤裕己校注、岩波文庫)
『太平記』の名は多くの人が知るところだろう。だが、『太平記』がどのような書物であるかを詳しく知っている人はそう多くない。実は『太平記』は、日本の古典文学の中でも特異な性質を持ち、後の日本に実に大きな影響を与えたのである。混乱の世を描いた『太平記』から、いまわれわれ現代人が学ぶべきこととは何か――。(全6話中第1話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:13:37
収録日:2020/08/26
追加日:2020/11/01
≪全文≫
●『太平記』は徳川光圀によって発見された

―― 皆さま、こんにちは。本日は、兵藤裕己先生に『太平記』の世界、激動期の生き方というテーマでお話をいただきます。兵藤先生、どうぞよろしくお願いいたします。

兵藤 よろしくお願いします。

―― 兵藤先生は、岩波文庫の『太平記』全6巻の校注も務められました。この校注の元になった『太平記』は、どのような本だったのでしょうか。

兵藤 京都に龍安寺という、大変有名な禅宗のお寺があります。その龍安寺が、古く室町時代からずっと所蔵している本です。

 例えば元禄時代、徳川光圀が『大日本史』をつくる時に、『太平記』を参考にします。日本の歴史を書く時に、いろいろなところの『太平記』の本を探した結果、発見した本の一つなのです。

 龍安寺の所蔵する『太平記』は、徳川光圀がつくった『大日本史』の時代から引用されているのですが、今まで一般の人が手に取れるような、例えば文庫本や古典全集といった形での本がなかった。ですから、私が龍安寺にお願いして許可をもらい、これを活字本にして注釈を付けたのです。始めてから完成するまで12年かかりました。

―― 12年? そうですか。

兵藤 なんとか出したということですね。


●2度の討幕を企てた後醍醐天皇

―― 見ていただいてもお分かりの通り、『太平記』は岩波文庫版でも第1巻から第6巻まであります。もともとは第1巻から第40巻までという、かなり大がかりな書籍になります。

 そもそも、『太平記』という名前は聞いたことある方が多いと思います。扱っている時代は、鎌倉幕府の末から室町幕府第2代将軍が亡くなるまでですね。

兵藤 そうですね。一番初めに『太平記』に登場する人物は、後醍醐天皇です。後醍醐天皇は1318(文保2)年に、第96代天皇として即位します。後醍醐天皇は最初から、「昔のような朝廷の華やかな姿を取り戻したい」「朝廷を中心にした政治体制をつくりたい」という意欲がとてもあった人でした。それに対して目の上のたんこぶなのは鎌倉幕府です。政治を牛耳っている武家政権が、関東にあったのです。

 よく高校の歴史教科書にも書いてあることですが、後醍醐天皇は 1324(正中元) 年の正中の変、1331(元弘元)年に元弘の変と2回、幕府を討伐する企てを立てます。1回目も2回目も失敗するのですが、2回目である元弘の変の時に後醍醐は捕らえられて、島根県の隠岐に流されてしまいます。

 でもその間に、当時の言い方では「畿内」、今でいう近畿地方の「河内国」という大阪の山間部で……

―― 南のほうの山間部ですね。

兵藤 河内国の楠木正成という人が、後醍醐の命を受けて、執拗で広範なゲリラ戦を展開します。現在の奈良県・大阪府・和歌山県のあたり一帯で、反幕府闘争をするのです。それを幕府はなかなか鎮圧できなくて、手を焼きます。

 そうしているうちに、だんだん全国の情勢が怪しくなり、いろいろなところから楠木に呼応して、反乱の火の手が上がってくるという状態になりました。


●楠木正成の登場、そして足利尊氏・足利直義の兄弟、新田義貞の離脱

兵藤 『太平記』第7巻に「千剣破(千早)城の戦い」があるのですが、楠木正成が千早に造ったお城があります。今でも大阪の河内長野市には、千早城の立派な城跡があります。この千早城での戦いで、幕府軍は城を全く攻め落とせない。『太平記』だと幕府軍の兵数は何十万人と書いてあります。それほど多くはないと思いますが、攻め落とせないのです。

 そうしているうちに、兵糧は不足してくるし、千早城を取り巻いている幕府軍の背後から追い剥ぎのような、いわゆる野武士が奇襲攻撃をしかけてくるなど、大混乱に陥ります。

 そうすると、もう幕府はダメだろうという空気になり、鎌倉幕府方の極めて高い地位を占めていた足利尊氏・足利直義という兄弟が離脱。それから千早城攻めで幕府側の軍勢として参加していた新田義貞も戦場から離脱して、出身地の群馬県に帰ってしまいます。

 楠木正成が時間を稼いでいるうちに内乱が全国化していき、幕府の内部では足利尊氏といった幕府の高官が、幕府を裏切る事態になっていく。最終的には足利尊氏が、京都にある幕府の出先機関である六波羅探題を、1333(正慶2年/元弘3)年5月9日に滅ぼします。そして、その2週間ほど後、5月24日に新田義貞が鎌倉の町に火をかけて、鎌倉の町が全焼するわけです。

 その知らせを聞いた時に、後醍醐はすでに隠岐を脱出していました。隠岐の対岸にある鳥取県・名和湊(なわみなと)の名和長年に助けられ、名和湊にある船上山(ふなのうえやま)に城郭を構えていたのです。そこで幕府滅亡の知らせを聞き、京都に戻っていく。

 そして建武の新政が始まるのですが、それが『太平記』第12巻です。


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