●『太平記』は幕末の志士に影響を与えた
兵藤 そこで出てくるのが、例えば吉田松陰の草莽崛起(そうもうくっき)というスローガンです。またそこで実現されたのが、天皇と民との間を隔てる貴族を排除した「一君万民」の世界です。
例えば、中国は近代化が遅れました。韓国も、両班という貴族制度が根強くあったので、近代化がかなり遅れました。アジアで最初に、「国民国家」ができたのは日本ではないでしょうか。偉いのは天皇であり、あとは軍人であろうと公務員であろうと、みんな「民」だった。一君万民という形の、いわゆる「国民国家」ができあがったのです。
だから、日本はアジアの中で、最初に国民軍をつくることができ、国民国家をつくることができました。これは、『太平記』に描かれている思想、描かれている二つの政治のあり方が影響しています。それが、その後の室町幕府と江戸幕府をつくり、武家政権をひっくり返したのです。
例えば坂本龍馬は(ある意味、)ほとんど武士ではありませんね。
―― 土佐藩の中でも決して身分が高い層ではないですからね。
兵藤 彼らのような人が、才能次第で国を建てていく。まさに草莽崛起です。そのような『孟子』に由来する思想を、吉田松陰が長州の人たちばかりではなく、薩摩など他のいろいろな人たちに広めていきました。これは近代の政治史を考える上で、非常に重要なことではないでしょうか。
―― そうですね。楠木正成は幕末の頃から本当に大衆に大人気で、芝居小屋などで、「いよいよ本日より楠木が出る」となると、お客さんが押し寄せてくるという話も残っています。そのようなものが明治以降の近代国家をつくる上で、一つの原像になっていたということでしょうかね。
兵藤 そうですね。
―― 後醍醐天皇が、中国の宋の時代のように、皇帝と民が直結することを理想としていたというお話でした。『太平記』の中でも、それこそよく宮中で、怪しい人がたくさんやって来て、「酒池肉林」というと語弊があるかもしれませんが、つまり宴会ばかりやっているといった話が出ています。あれはつまり、門閥系の貴族からはそう見えるけれども……。
兵藤 もちろん、その立場からの批判的記述です。無礼講は実際にやっていたのですが。
―― 後醍醐天皇からすると、有能な人たちを登用するための集まりで、どうやって接点を作るかというところだったのかもしれませんね。
●楠木正成は新しい時代の商業を担う新しいタイプの武士だった
―― 今、話が出ました楠木正成という人物ですが、『太平記』の中ではさまざまな人物の毀誉褒貶ある中で、一貫して英雄的に描かれ続ける人物です。『太平記』における楠木正成の位置づけは、どのように見ておられますか。
兵藤 正成については、近年も歴史学者がいくつかの説を出されているのですが、確定的な結論は出ていません。ただ、鎌倉幕府は、将軍や執権がいて御家人体制のようなものがあり、それが守護地頭として全国に散らばって支配している体制です。そのような正統的な武士の秩序には、正成は入りません。当時は治安が悪く、百姓も武装しています。そのような中で、彼は力をつけてくる。
例えば名和長年は、鳥取県の名和湊に拠点を置いた商人でもありました。資料が残っているのですが、名和長年は足利政権と戦った後、名和湊にいられなくなり、結局、名和の子孫は九州の八代に移ります。九州の八代に移った名和一族は何をしていたかというと、「倭寇」つまり海賊のようなことです。
当時の交易商人は、相手が弱そうだと思ったら突如、海賊に変身してしまう。「武装した商人」とでもいいましょうか。「民」といっても、いわゆる百姓ではないのです。
戦前に、中村直勝という南北朝研究の先生が京都大学にいました。その人に言わせると、正成の本拠地である金剛山一帯では水銀が採れると。水銀は、鳥居を赤く塗るなど丹塗りの原料で、当時は非常に高価なものです。それで財を得ていたのではないかというのです。
その説に沿うと、正成は普通の百姓ではなく、鉱山技師となります。水銀を運び、京都や奈良のお寺に持って行き、売りさばいたりする。ある意味では貨幣経済を担っている商人ですから、名和長年と同じく、流通経済に詳しいと思います。つまり、普通の人よりも、流動的な世の中の動きに敏感だったということではないでしょうか。
そういう人たちの可能性に、後醍醐は目を付けたのではないでしょうか。それを媒介した人として、先ほども名前を挙げた文観上人という僧侶がいます。あるいは、下級の貴族なのですが、後醍醐の側近である日野資朝や日野俊基が、後醍醐の命を受けて山伏姿に身を変えて全国を歩き回った、などということが『太平記』に書かれています。
たまたま『太平記』には、名和長年や楠木正...