●『孟子』の思想に強い影響を受ける『太平記』
―― 今のお話からすると、足利氏がなぜ将軍になったのかというエクスキューズのためでしょう、序文からしても『平家物語』は無常観が説かれますが、『太平記』は儒教的というか、孟子の革命思想「悪いものは天によって払われる」に近いものがあるということですね。
兵藤 そうですね。『平家物語』序文「祇園精舎の鐘の声……」では、異朝と本朝の先例が挙げられています。
「遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の祿山」。そして、「近く本朝をうかがふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信賴」。これらの8人の先例は全て、朝廷に反逆して滅んだ悪臣です。
―― そうですね。
兵藤 ところが『太平記』の場合は、「もしその(帝王としての)徳欠くるときは、位ありといえども持たず。いわゆる、(中国の最古の王朝)夏の桀(王)は、南巣に走り(南巣の戦いに敗れて逃げ)、殷の(王朝最後の暴君である)紂(王)は、牧野に敗る(牧野の戦いで州の国に敗れて殺された)。」
「その道(臣下としての道)違うときは、威ありと雖も久しく保たず(威力があってもその威力を久しく維持することはできない)。かつて聞く。趙高(秦の始皇帝に仕えて、始皇帝の王子を殺害し、やりたい放題を行った極悪人)は咸陽に死し、禄山(唐の玄宗皇帝に反逆した安禄山のこと)は鳳翔に亡ぶ(滅亡した)と。」
これは要するに、後半は悪臣が滅んだ例だけれども、前半は悪王が滅んだ例です。ですが、日本は万世一系を謳っているので、悪王が滅んだ例を挙げるのはおかしいのです。
―― 確かに。あまりこういう例は見ませんね。
兵藤 これは、『孟子』の思想がこの時代に流行してしまって、(『太平記』に)入ってきているのです。
●「貴戚の卿」として足利尊氏に担がれた光明天皇
兵藤 『孟子』の一節に、国王に大過(大きな過ち)があって、臣下がたびたび諫めても聞かないようであれば、「貴戚の卿」、つまり同姓の王族に「位を易ふ」とあります。これは『孟子』の「貴戚の卿」という有名な思想です。
(足利)尊氏は、まさか自分が天皇になろうなどとは思っていません。自分が政治をやっていくうえで都合のいい天皇を持ってこられればいい。後醍醐のような有能な天皇ではなく、言うことを何でも「はい」と聞いてくれそうなイエスマンの天皇を置いてしまいたい。
この時期、皇統には、後醍醐の大覚寺統とそれに対立する持明院統がありました。持明院統には、光厳天皇の弟である光明天皇がいました。光厳天皇は後醍醐の前の天皇で、後醍醐が隠岐から帰ってきた時に位を廃された天皇です。その方の弟に光明天皇がいたのです。
持明院統は代々、鎌倉幕府の言うことを絶対的に聞いてきた天皇だし、足利政権の言うことも聞いてくれる。光明天皇はまさに「貴戚の卿」、後醍醐に代わる同姓の王族として、足利尊氏に担がれたのです。
こういうことが行われる背景には、『孟子』の思想がありました。特に足利直義はとても頭のいい人ですから、当然『孟子』を知っていました。ですから、帝王の資質に欠けている場合には、たとえ天皇の位に就いていても、その位を維持することはできない、と言うのです。
これは、明治以降なら不敬罪といいますか、ほとんど反逆罪になってしまうような話になります。しかし、そのようなことが普通に流通していたために、結局、南北朝時代ができてしまったのでしょう。
●後醍醐天皇は臣下の家柄ではなく能力を重視した
―― 『太平記』の成立自体が、後醍醐天皇が崩御されて間もない時期ということもあり、それからしばらく南北朝時代で、北朝と南朝に分かれます。まさにその時代背景だからこそ、生まれてきたものかもしれないですね。
兵藤 そうですね。北朝は基本的に足利氏の政権です。足利氏の政権がそのまま室町幕府に移行しても、北朝の天皇はいるわけですね。実質的には武家が政権を握り、天皇は儀礼的なお飾りの形で、任命権だけを持っている。そのような形は江戸幕府でも続いていきます。
ですが、「それはおかしいのではないか」と言い出す人たちがいる。そのときの1つのお手本となるのが、後醍醐天皇と楠木正成だったと思います。つまり、徳川将軍家あるいは足利将軍家が天皇を囲い込んで独占するのではなく、もっと天皇を民に開け、と。
天皇は1人で、民はたくさんいるわけですが、そのたくさんの民との間を隔てているのは臣下です。藤原摂関家の時代なら摂政・関白がいます。その後、上皇の院政の時代になり、鎌倉幕府の武家の時代になっていきます。いつも天皇は一番上で、形式的には最高の存在なのですが、...