●後醍醐天皇の「建武の新政」を大批判
『太平記』第十二巻は「建武の新政」です。第十巻で新田義貞によって鎌倉幕府が丸焼けになり、そして第十二巻で後醍醐が京都に帰ってきて、建武の新政が開始されます。この建武の新政を倒したのは、足利です。
建武の新政が『太平記』でどのように書かれると思いますか。当然、非常に悪く書かれています。
―― そうですね。
兵藤 元の『太平記』には、そんなものはあったはずがありません。後醍醐の鎮魂の物語ですから。
ところが、今ある『太平記』第十二巻「建武の新政」では、まず後醍醐が大内裏建設を企てたことが批判されます。内裏とは例えば、京都御所にある紫宸殿や清涼殿などです。大内裏とは要するに、今でいうと「霞ヶ関」です。
―― 官庁街も含めた政界の場ですね。
兵藤 そうです。太政官八省全てを一か所に集めるのです。
平安京には、大内裏はきちんとありました。ところが、その後の王朝社会では、大内裏という大げさなものは必要なくなり、内裏だけで十分だとなります。
―― 御所の場所も移ったという話がありますね。
兵藤 大内裏は、とっくの昔に滅びたのです。
ところが、後醍醐が大内裏をつくりたいと言いだします。立派な官庁街を整備したい。要するに、後醍醐は中央集権的な政治を取り戻したいのです。
今まで権力を握っていたのは、藤原氏や比叡山延暦寺などの僧侶、あるいは院政をしいた上皇と、さまざまでした。そのように、さまざまな属性の人物が各所で政治を握るのではなく、天皇の皇居周辺に大内裏、つまり霞ヶ関をつくり、そこで政治を行うといった中央集権的な体制をつくりたい。
それを行おうとしたことが、かなり批判されてしまいます。「戦争が終わって、みなが疲弊しているときに、大がかりな公共事業を行うなんて!」と、まず批判される。
また第十二巻で批判されるのは、千種忠顕という後醍醐の側近です。彼は、後醍醐と一緒に隠岐にまで行って、幕府を滅ぼす戦争のときには山陰道から攻め上ってくる天皇軍の大将になりました。その人物の建武政権下での振る舞いがかなり批判されます。驕り高ぶって、遊んでばかりいる、といったように。
もう1人、後醍醐天皇と楠木正成とを結びつけたと思われる文観という僧がいます。その文観については「外道」と書かれる。
―― ずいぶんな言葉ですね。
兵藤 千種忠顕については、「国の凶賊」といわれています。「国の凶賊」あるいは「外道」などという言葉で、後醍醐の側近中の側近2人を、『太平記』では激しく攻撃しているのです。
●歴史上の優秀な女性はみな、悪女になってしまう
それからもう一つ、重要なことがあります。後醍醐はこの後、1339年に吉野で亡くなって、南朝第2代目の天皇として後村上天皇が即位します。
後醍醐の中宮(正妻、皇后のことを昔は中宮と言いました)は禧子(きし)という女性です。中宮の子どもには、女子はいたのですが、男子はいませんでした。後醍醐の側室ではないのですが、寵姫である阿野廉子(あのれんし)という女性が皇子を生みます。その皇子が、南朝第2代の後村上天皇になるのです。
第十二巻では、同じく後醍醐天皇の皇子である護良(もりよし)親王の失脚も描かれています。護良親王を陥れて失脚させたのは阿野廉子だ、そして中宮・禧子を非常に辛い目に遭わせたのも阿野廉子だ、といったように、彼女はやりたい放題の悪女のように描かれているのです。
ところが、後醍醐が亡くなった後、まだ非常に若い南朝第2代の後村上天皇を助けて南朝を仕切ったのは、この阿野廉子です。ですから、大変有能な女性だったと思います。ですが、そのような政治的、経済的に有能な女性は、この時代、どうもあまり好まれなかったようです。
例えば、中国の経典で『書経』という本があります。この本に、「牝鶏(ひんけい)の晨(あした)するはこれ家の索(つ)くるなり」という有名な言葉があります。要するに、女が先に口を出すと、その家はつぶれる(めんどりが朝を告げるようになったら、家が滅びる前兆である)、ということです。そのような論理でもって有能な女性は、「出る杭は打たれる」のです。
同じような例は、応仁の乱の時の日野富子ですね。日野富子は、夫である室町幕府第8代将軍義政のだらしなさに比べたら、とても有能な女性だったと思います。かつてのNHK大河ドラマ『花の乱』などもそうですが、悪女のように描かれる傾向があるようです。
―― どちらかというと悪女的なイメージが強いですね。
兵藤 要するに、歴史上の優秀な女性はみな、悪女になってしまうのです。阿野廉子はとんでもない悪女に描かれるのです。
『太平記』第十二巻「建武の新政」での...