●音楽はなぜ時代を色濃く反映するのか
―― 皆さま、こんにちは。本日は慶応義塾大学法学部教授で、音楽評論家でもいらっしゃる片山杜秀先生をお招きいたしました。クラシックで読み解く世界史について、お話をいただければと思っております。片山先生、本日はどうぞよろしくお願いいたします。
片山 こんにちは。よろしくお願いいたします。
―― 片山先生は、ちょうど文春新書から『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』という本を出されています。ここに先生がお書きになったことで、とりわけ印象深いところから今日のお話を切り出したいと思っています。
なぜ音楽と世界史なのか。この本の中で片山先生が書かれたのは、「音楽ほど、当時の社会状況や人々の欲望、時代のニーズの影響をダイレクトに受ける文化ジャンルも少ない」ということです。だからこそ、音楽の流れを追っていくと、世界史の状況とか、その社会でいったい何が起きていたかがよく分かる。それが、先生のお書きになった一つのメッセージだったかと受け取りました。では、なぜ音楽は、社会状況や人々の思い、欲望や願いをダイレクトに反映する芸術なのか。このことについては、どういうふうにお考えでいらっしゃいますか。
片山 音楽というのは簡単に言うと、リズムがあり、メロディがあり、いろんな要素があるので、それぞれの時代、それぞれの地域で好まれるものを聴き分けていくことによって大きなものが見えてくる。そういうことはありますけれども、もう少し即物的な理由が音楽にはあります。例えば、文章や詩を書くことなら、紙と筆があれば、誰でも作品を残していくことができるわけです。もちろん焼けてしまったり、紛失してしまったりするとどうしようもありませんが、「同時代には理解されなくても、後から見たらすごい詩人」というのは、あり得るわけです。
もちろん音楽でも、ちゃんとした楽譜を書いておけば、後から評価されることはあります。しかし、これは楽譜の成立の歴史を考えても、かなりのちの時代になります。書かれてだいぶ経ってからでも、楽譜を見れば正確に、どんな楽器の組み合わせで、どういうふうにやっているかが再現できるのは、かなり楽譜が発達してからのことで、結構難しいことなんです。
そうすると、やはり同時代的にちゃんと演奏され、聴く人がいるなかでつくっていくようなものが残っていく。聴く人もおらず、演奏する人もいないのに、つくられたものが勝手に残って、後の時代に評価されるということは、すごく起きにくいのが、音楽ということになると思うんです。
●演奏者や聴く人がいないと「音楽」は残らない
―― 例えば、ベートーヴェンが一曲も演奏されないままに、楽聖になれるかといったら、それはあり得ない、ということですね。
片山 そうですね。これが文学だったら、もういきなり20世紀に話が飛びますが、カフカとかはほとんど生前は評価されていない。宮澤賢治だって、そうですね。
彼らは生前に評価されていないけれども、原稿を残しているから後で評価されました。でも、音楽の場合は、まったく演奏されないのに楽譜を書き続ける人というのは、趣味でやっている人にはいるかもしれませんけれども、基本的にはない。また、音楽は楽譜だけ書けばいいというものでもない。
もちろんピアノやギターの独奏曲であれば、自分で演奏する人が自分でつくって、誰も聴いていなくても、勝手に一人で演奏して、自分だけが聴くようなことがあり得ます。でも、音楽の主流というと、交響曲やオペラ、もう少し人数が少なくても合唱や室内楽になります。少なくとも5人から数10人、交響曲やオペラ、大合唱付きのオーケストラの作品なんていうのになると、千人や2千人という単位で演奏者がいます。
そうすると、これは、その時代の社会や経済のなかで、みんなが認めるもの、「それを聴くといいんだ」と思えるものに対して、人が集まり、お金が集まり、作曲家もそういう大きな規模のものをつくって、演奏されるというシチュエーションが生まれていきます。
美術でも、壁画になると大規模で、いろんな人を大勢使い、時間もかかることになるから、お金が必要。そこで、スポンサーが仏教の大きなお寺とか、キリスト教の大きな教会ということになる。
―― そうですね、大聖堂の中の絵などは、まさにそういう感じですよね。
片山 はい。そういうスポンサーがちゃんといないとできないものもありますけれども、一人で描く油絵など、材料さえあればいいものは、あり得るわけです。
●「時代のニーズ」と音楽はいつも密着してきた
片山 ところが、音楽に関していうとまさに壁画的で、いつも予算が必要で、規模が必要です。大勢の人の協力が必要なものじゃないと、演奏するのに多くの人を必要とする楽曲というもの...