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西洋音楽の「異常な変拍子」と伊福部昭の「乗れる変拍子」

伊福部昭で語る日本・西洋・近代(4)変拍子で音楽が生きる

片山杜秀
慶應義塾大学法学部教授/音楽評論家
情報・テキスト
映画「ゴジラ」(1954) ライヴ・シネマ形式全曲集
(和田薫 指揮 日本センチュリー交響楽団 〈アーティスト〉 )
伊福部昭の音楽の特徴として、変拍子を巧みに使っていることがある。変拍子をつかった作曲家は海外にも多くいるが、伊福部昭の曲とそれは何が違うのだろうか。そうした変拍子に対する考え方が、日本的なもの、アジア的なものを彼の曲から想起させる遠因になっていると片山氏は解説する。(全8話中4話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:11:54
収録日:2023/09/28
追加日:2023/12/02
カテゴリー:
≪全文≫

●ゴジラのテーマ曲は軍隊マーチ


片山 最初に聴いていただいた『ゴジラ』のメイン曲の話を少しさせていただきます。

 最初に聴いていただきました曲は、「ゴジラのテーマ」といわれていますけれども、映画を見ていただくと分かる通り、ゴジラが出てくるシーンに当ててあのメロディが流れるのではなく、ゴジラに対して自衛隊や消防隊がいら立ち、活躍しようとしてゴジラにやられて立ち向かっていくときに流れてくる。つまり、マーチなのです。自衛隊や軍隊のマーチのイメージで、あの曲を作っているのです。

 ところが、マーチであれば2拍子のはずなのに、「タタタン、タタタン、タタタタタタタタタン、タタタン、タタタン」と、数字で数えると「12、34、56789、12、34、……」と9で区切りがついている。2拍子で考えた場合、にしがはち(2×4=8)か、にごじゅう(2×5=10)でなければいけないのに、1拍違うのです。これがイライラを生む、というのが伊福部昭さんのアイデアで、ゴジラに立ち向かう人間のイメージになっている。

 つまり、普通に安心して、堂々と行進して、2拍子のままであるならば、ただのマーチです。1拍足りない、または1拍増えている(8+1、または10-1など)という「奇数が入る」ことによって落ち着かない状態になる。

 この「奇数が入る」ことは、落ち着かないということも表現できるけれども、即興的だということを最も表現できるのが、奇数が入ったり変拍子になったりすることなのです。マーチだから「1、2」で行くはずなのに、急に「1」が入ったり、「3」が入ったりする。これで「おかしいな」となることによって、感覚が新鮮になる。

 伊福部さんは「突飛なことを考えたつもりはない」ということを私にもよくおっしゃっていました。


●即興的であることを追体験できる仕掛け


片山 本来、民族的なもの、生きた芸能というものは、先ほどのアイヌの芸能に表れているように即興だから、その場で考えている。その場で考えているから1つのパターンはあって、2拍子や4拍子、あるいは3拍子に乗って、言葉を口ずさんでメロディを作っている。しかし即興で作っていると、必ず「次、どうしようかな」と考える。そこで微妙に間が入って、「ウッ」と止まったり、また平然と始めたりする。だから、生きた芸能というものは必ず定型から外れて、1拍伸びたり縮んだりする。変拍子を使うことによって、それが生きてくるのです。

 「ソーラン節だから、いつも同じパターンで、同じメロディで」としていると、(芸能としては)死ぬのだと。生きるためには、即興的に次を考えたり、「あっ」と思って立ち止まったり、「どうしよう?」と迷ったりする。それを、聴いているときに追体験できるようにする。その追体験ができるような仕掛けとは、「2拍子だと思ったら1拍増えた」「3拍子だと思ったら5拍子になった」「8拍子だと思ったら9拍子だった」「4拍子や6拍子でくると思ったら5拍子と7拍子だった」などのように、そのたび毎に拍子が変わっていく。同じように「123、123、…」や「12、12、…」、「1234、1234、…」ではなくて、「123、1234、123、12345」だったりする。これが生きているということである。

 だから伊福部さんは、「自然に音楽を考えると、西洋の音楽の常識は自然ではない。変拍子が自然なのだ」と、考え方をひっくり返しているのです。

―― だから合いの手が「ほいっ」などと入るわけですね。そういったリズムをどう再現していくか。即興をそのままかたちにしてしまうと。

片山 そうです。伊福部さんは、譜面に書いているのだから即興ではありません。でも、即興的なものを、聴いている人や演奏する人が感じるための仕掛けとして、たくさん変拍子を入れていくことが大事なのだというのです。

 その変拍子はもちろん不自然ではなく、変拍子が当たり前であるように作る作曲家の技がまた必要なのだと言います。それによって、作ってあるのだけれども、自由に生き生きと、その場その場で即興的に、そのときそのときに踊ったり歌ったりしているのだなという感覚を追体験できる仕掛けがきちんとできているということなのです。ややこしいですけれども。


●ストラヴィンスキーの変拍子との違い


―― 変拍子の曲は、特に近現代以降はいろいろありますけれども、伊福部さんの曲はリズムに乗れるのですよね。

片山 そうです。変拍子なのに、それが自然にできる。ストラヴィンスキーの「春の祭典」の変拍子だと、ひきつってしまう感じになってしまう。

―― ひきつったり、止められたりしている、遮断される感覚があります。

片山 ストラヴィンスキーの「春の祭典」という曲は、第一次世界大戦が起きる1914年の前年の1913年にパリで初演されたバレエ音楽で、西洋人の「これが芸術だ」というものから一番外れているものだ...
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