●音楽を独学した青年の驚愕のオリジナリティ
片山 聴いていただきましょうか。
―― そうですね。21歳のアマチュアの青年がどんな曲を作ったのか。その曲の2楽章をかけてみましょう。
(音楽:「日本狂詩曲」挿入)
―― ただいまの演奏は、「譚-伊福部昭 初期管弦楽 伊福部昭の芸術1」、指揮は広上淳一さん、日本フィルハーモニー交響楽団の演奏でした。
これを21歳の、音楽教育を受けてない青年が作った。北大でオーケストラ曲を作っていたわけですね。
片山 伊福部昭さんは中学校(札幌第二中学校)の頃から仲間内で音楽をやっていました。伊福部さんはもともとヴァイオリンをおやりになっていた。だから、本当は作曲よりもヴァイオリニストになりたい時期もあったと思います。ただこれも、ほとんど独学で学んでいたわけです。
後に音楽評論家にもなる三浦淳史が、同じ中学の仲間にいた。音楽家になるには作曲が一番根本なのだということになって、作曲を独学で一生懸命勉強し、中学から大学にかけて、ストラヴィンスキーやドビュッシーなど当時手に入る譜面を見ながら(勉強した)。でも、誰かに習うわけではない。札幌ですから、有名な作曲家は当時いないし、音楽学校があるわけでもない。独学で勉強し、先ほど申しましたように「チェレプニン賞に応募してみよう」と思っていきなりオーケストラ曲を書いたら、当時の世界の最先端の作曲家たちに「オリジナリティがある」ということで評価されたのです。
●アジアのバイタリティを巨大な近代的オーケストラで
片山 先ほど申し上げたように、アレクサンドル・チェレプニンはアジアの音楽に新しい未来を見るという考え方でした。この「日本狂詩曲」という曲名からも民族的なものが想像されるし、実際に聴いていただいてもそうだったと思います。第2楽章は「祭」という、ずばり祭り囃子的な、熱狂的なお祭りの感覚で作られているオーケストラ曲です。
チェレプニンの趣味としても、アジアのバイタリティのようなものが、お上品に、オブラートに包まれているかたちではなく、生で出てくるようなもの、しかもそれが近代的な巨大なシンフォニーオーケストラで表現されている。こういうものをチェレプニンはいちばん見つけたかったわけです。だから(「日本狂詩曲」は)、チェレプニンの趣味そのものだったのです。
ただの祭り囃子を、そのまま日本の太鼓や笛で演奏したらただのお祭り囃子です。それは民族音楽ではありますが、そうではなく、世界のどこへ行っても、交響楽団があって譜面があれば、この曲は演奏できる。日本の祭り囃子的なものを、100人ほどの大オーケストラによって、技術的にも非常にレベルの高いかたちで、響きではかなりオリジナリティがあるかたちで演奏できる。世界の大きな町にはあるシンフォニーオーケストラを使って、指揮者とオーケストラがいて、伊福部さんの譜面を持ってくれば誰でも、日本の祭りが猛烈な音響で、しかも日本の実際の祭りよりもある意味で壮大に(金管楽器があったり、木管楽器があったり、いろいろな打楽器がある交響楽団ですから)(演奏できる)。
日本の祭りのバイタリティと西洋近代のオーケストラの融合――ハイドン、モーツァルトの時代から、ベートーヴェン、ワーグナーの時代から、マーラー、リヒャルト・シュトラウスの時代へと拡大していった巨大な、これほど大きな音が出るのかというシンフォニーオーケストラの極限的な能力を使って、日本の祭り囃子が鳴ってしまうという融合(ハイブリッド)――です。これがいきなり実現した。
●当時の日本人作曲家と比較した伊福部昭の「破格」さ
―― (伊福部さんが)一躍スターダムにのし上がってくる。それが昭和10(1935)年です。この時代は日本がアジアに進出していく局面でもありますし、西洋自体も自分たちの没落を感じつつあるという時代背景の中で、日本国内で大変人気がある作曲家になっていく、ということでしょうか。
片山 少し時間はかかるのです。実は当時のクラシック音楽に憧れて、日本の作曲家も「頑張って西洋の名曲に匹敵するようなものを作りましょう」という流れは、すでに大正時代からずいぶんとありました。その中で滝廉太郎などがいたわけです。滝廉太郎は日清・日露戦争の間で活躍して亡くなっているのですが、滝廉太郎が先駆になり、大正時代に入ると山田耕筰、「海ゆかば」を作った信時潔、それからさらにいろいろな作曲家が出てくるわけです。
大正時代の終わり頃になると、今のNHK交響楽団につながるオーケストラの歴史も本格的に始まります。そこで「日本の作曲家の曲もあっていいではないか」という中で、近衛秀麿さんなどいろいろな人がまた登場してくる。 でも、彼らはドイツのロマン派や、フランスの音楽などヨーロッパのスタイルを真面...