●情報のノウハウを近代国家が身に付けるには3世代かかる
質問 昭和になると、小野寺信氏や杉原千畝氏のような陸軍系の情報将校が出てきます。昭和期のインテリジェンスはどうだったのでしょうか。
中西 日本は明治からインテリジェンスの獲得に苦闘してきました。明治時代には、海軍の情報部などに明石元二郎などの、個々の素晴らしいインテリジェンスオフィサーが出てきます。しかし、それが定着するまでには3世代の時間がかかりました。陸軍大学を出た俊秀が欧米に留学して学んできたものが、組織的なノウハウ、知識として蓄積されて、花開いたときに出てきたのが、小野寺氏や杉原氏のような人材だったのです。すでに時代は昭和になっていました。
陸軍中野学校のレベルも随分と高いです。教育内容の点でも、指導的な教官のレベルにしても非常に高度です。しかし、中野学校の設立は10年遅かったと言わざるを得ません。中野学校が実際に発足したのは昭和13年ですが、最初は「後方勤務要員養成所」という名前でした。昭和15年に中野学校に名前が変わりますが、これが昭和3年ごろ、満州事変の前にできていればと思います。もしそうだったら、日本の運命は変わっていたでしょう。それほど大きな意義があったと思います。
昭和13年(1938年)といえば、支那事変、いわゆる日中戦争がすでに始まっていて、たけなわになっている頃で、戦時体制です。そういう時に、例えば情報要員をロシアやアメリカ、イギリス、ヨーロッパに派遣できていれば、大きく違っていたでしょう。あるいは同盟国になろうとしているドイツです。ドイツは本当にソ連と戦って勝てるのか、それほど工業力が回復しているのか。こうした地道な情報を集めてきて、日本に伝えられればよかったのですが。これが可能な人材は、あと少し中野学校の創設が早ければ養成できていたでしょう。
人材育成が追いつかないため、当時は陸軍の主計将校のような人が流用されていました。彼らは経済や産業の知識を持っていて、そこにはインテリジェンスの要素も確かにあります。しかし、やはり秘密情報を、しかも外国で集めるというのは、主計将校の本来の仕事ではありません。彼らの仕事は統計を扱うといったことに限られています。
中野学校の創設がもう5年早ければ、ドイツはソ連には勝てないし、まして英米を相手に近代戦を戦っても3年は持たないということが...