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●日本ほど見事に情報で国を治めていた国家はない
質問 日本の歴史の流れの中で、インテリジェンスはどのように考えられてきたのでしょうか。
中西 インテリジェンスの研究をしていると、「日本人にはこういう分野は向いていないんじゃないですか」「日本は情報軽視でずっとやってこれたんだから、欧米や中国のように情報重視の国にはなかなか変わりませんよ」といったことを言う人をよく見かけます。
しかし、これは完全に間違っています。古代史から日本の歴史を調べてみると、戦国時代までは、日本ほど見事に情報でもって国を治めていた、あるいは発展していた国家はありません。アジアの資源も何もない、いわば絶海の孤島で、日本は何千万人もの人口を養って、江戸時代までずっと発展し続け、高い文化を保ってきました。しかもほとんど平和です。
ただし、蒙古襲来や、例えば白村江の戦いのような朝鮮半島の動乱は、古代から頻繁に経験してきたのも事実です。これを乗り越えてこれた大きな要因は、実はインテリジェンスにあったわけです。こうしたことは昭和になってようやく研究が始まったことですが、結局敗戦でパタッと途切れてしまいました。日本の古代中世の諜報史を扱った本が、昭和10年前後にたくさん出ているのですが、今では古本屋でも手に入りません。それほど戦後は、おざなりにされてきた分野なのです。
●商社の伝統は、江戸時代の藩の情報によるものだ
中西 日本民族の情報能力について言えば、重要なことは江戸時代がその大きな陥没期であったということです。鎖国によって平和が保たれた一方、情報のことをあまり考えなくなってしまったのです。
ただし、幕府や藩は情報を集めていました。幕府は隠密を放って、幕藩体制の維持に努めましたし、薩摩藩や佐賀藩では、海外との密貿易が行われていましたから、情報をたくさん持っていました。しかしこうした情報は、商売向きのものです。貿易や財政にとって必要な情報がしっかり集められていたからこそ、明治になって、三井や三菱のようなしっかりした世界総合商社があれだけ短期に出来上がったのです。商社の伝統は、江戸時代の藩の情報によるものです。
長崎の出島の情報はその典型です。あるいは、新井白石も「情報あっての徳川の御代だ。情報こそ徳川を支える手立てだ」というようなことを言って、潜入してきた外国人の修道士を自ら一生懸命取り調べし、西洋の事情を調査していました。
ですから、日本は決して情報不感症国、情報無関心国家ではありませんでした。「日本人は狩猟民族ではないのだから、欧米や中国のようなまねはできない」「日本人は情報軽視民族だ」――こうした間違った議論が出てくるのは、江戸時代の鎖国期に日本人は何もしなかったというイメージのためでしょう。とはいえ、日本全体としてみれば、ヨーロッパ並みのインテリジェンス水準に到底及ばないのも事実です。
●日本の近代化から、情報分野だけが抜け落ちた
中西 しかしもっと大事なことは、明治の開国の時代に、世界各国のインテリジェンスから取り残されてしまったということです。明治になると文明開化と称して、欧米からいろんな専門家を招いて、鉄道や大学、病院など、様々なものが造られます。政治に関しても、憲法はどうやって作るべきかということから、政党や議会の仕組みなど、全て西欧から学びました。
西欧列強も鷹揚に教えてくれました。日本という国は、アジアの中でも熱心に西洋化に励む、なかなかいい存在だ、一生懸命教えてやろうというわけです。たくさんお雇い外国人も送ってくれました。外交や軍事、陸海軍も、全てお雇い外国人のおかげで、あれだけ早く整えられたのです。
ところが、ただ一つだけ日本が学ぼうとしなかったし、また到底学ぶことのできない分野がありました。それが情報、インテリジェンス、諜報です。これはスパイの世界ですから、そんなものを教えてくれる国はありません。
中西 外国から学べないとすれば、自ら積極的に欧米に行って探るしかありません。あるいは、ペリー来航以来観察したことを学び、向こうの人間を買収して寝返らせ、そしてノウハウを教えてもらいました。インテリジェンスの分野だけは、どこの国でも最初に国際社会にデビューするときは、血の出るようなものすごい苦難の学習過程を経ます。イギリスだって、最初から情報大国だったわけではありません。
そういう意味で、明治の開国期、日本の近代化から、情報という分野だけがスポンと抜け落ちてしまいました。日本は学び切れなかったのです。近代国家になって、国際関係をさばいていかなければいけないのに、近代の情報収集事業が身に付いていなかったのです。それは、根本概念にそもそもの間違いがあったからでした。



美術館并猩々噴水器之図」