●なぜ「昭和維新」という言葉が人々の希望になったのか
―― 陸軍と国内の政治情勢の関係では、政治に限界を感じた陸軍がわざと過激な行動で政府を追い込み、窮地に立たせたということはあるのでしょうか。
中西 それはまさに、満洲事変の構造がそうなのです。
石原莞爾とか板垣征四郎といった、当時の関東軍を動かした中心人物の軍人たちが終始語っていたのは、東京の政府は必ず横やりを入れるはずだということです。彼らの中には日本の利権、つまり満洲における南満洲鉄道や日露戦争で得た利権を守るだけの勇気のある政治家はもはやいない。皆、政党政治家で保身に走るだけで、後は選挙で腐敗しきっていて財閥の走狗、飼い犬にすぎない。ということで、政治の堕落が根本にあったわけです。
彼ら政党政治家たちは、そんな満洲利権に中国やアメリカが介入してきて、利権をみすみす奪い取られるような状況が起こっているのに何も手を打とうとしない。ここですよ。ここから全てが始まるのです。
つまり、こういうことです、国家のかじ取りをすべき人たちが、当然のリスクを引き受けて大きな決断をして、そして文字通り指導者にふさわしい選択をする、この技量、この度量をなくしたとき、それでも普通の国ならそこで漂流していくわけですが、この国の中間層、あるいは下層の日本人でも、例えば幕末の志士、下級武士から国の大きな転換が起こったように、下から盛り上げていこうとする力が、逆に暴走につながるのです。これは昭和の悲劇だったと思います。
ですから、昭和史は皇道派も統制派も両方ともそうです。軍の中枢部は陸軍大臣とか参謀総長といった人たちは、保身に走っている人ばかりです。あの当時の軍の最高指導部は無能を絵に描いたような人たちです。
しかし、その一つ下、あるいは二つぐらい下の佐官、30代後半から40代にかけての中佐や少佐といった人たちの使命感の強さと、それと背中合わせの焦燥感、危機感の切迫性は、私の見るところ、満洲事変以前の時代に完全に一線を越えてしまっています。それほどの強い焦燥感がありました。
幕末の志士たちが行った桜田門外の変などは、今でいえばテロともいえるようなものですが、しかし、それによって明治維新につながり、新たな国づくりへと進みました。その大日本帝国がそのまま昭和へと続いて、しかも明治日本を中心に大成功してきた国の形があったわけでしょう。
そうしたら、テロというのは「明治維新を見ろ」ということで、国を生かすため、歴史を前に進ませるためのものだったということになるのではないでしょうか。昭和の青年将校だけでなく、多くの日本のエリートはあの時、池田屋事件、桜田門外の変、吉田松蔭先生の決起がなかったらという価値観、歴史観に、皆完全にはまっていたといいますか、支配されていたわけです。
―― 維新の生み出したものは全て肯定するのですね。
中西 そうです。だから「昭和維新」という言葉があれほど人々の希望の言葉になったわけです。いつも維新を起こして、今でもそうでしょう。政党の名前に「維新」という名前を付けると、そこにとても希望が感じられるという国柄だったということです。少なくとも昭和前半期は、です。
●「総力戦など考えるべきではない」とわかっていた皇道派
―― では問題は、陸軍が割れてしまった、派閥ができてしまったということでしょうか。
中西 本当の意味での国際協調は、力関係をしっかり考えていた人たちの意見です。つまり、対英米で戦争を考える、総力戦を考えるということは不可能だという意見です。その国力、物量からいって、日本はそんなことを考えるべきではないというのが、実は陸軍の最も優秀な部分、つまり派閥名でいえば皇道派の考えなのです。
小畑敏四郎など皇道派の人たちの考えは「対米戦は考えるべきでない」というのが大前提にあるわけです。むしろそれより危険なのは、満洲に隣接し、しかもイデオロギーが全く違って、対外侵略の戦争で国を築いてきたソビエト(ロシア)という国であるということです。
そういう意識で、日本はロシアを敵視するという意味では現状維持なのです。昭和7(1932)~8(1933)年ごろの日本にとっては、です。
ところが、統制派の人たちはそうではなく、もっと大きな日本が欲しかったのです。それは、中国大陸も実質的に日本の支配下に置き、その資源を自由に利用する機会があればさらに東アジア、東南アジアまで視野に持つという話です。
●「統制派や条約派が理知的」という歴史解釈は安易である
中西 海軍も実はそうなのです。海軍の艦隊派という人たちは、対英米強硬派のようにいわれます。確かにワシントン海軍軍縮条約に関してはそうでした。
日本とアメリカは対等でなければいかんということで、5:5:3の比...