●大正時代は日本がもがき出した時代だった
中西 このバーデン=バーデンの盟約から全てが始まってくるわけですけれども、こういう問題意識を持っていたのは彼らだけではなく、当時のエリートたちは軍人に限らず皆、そう思っていました。日本はこのまま遅れた農業国家で、あるいは第一次大戦で急速な工業化が進んだけれども、戦争が終わると途端に脆弱な馬脚を現して、長期不況に陥りそうな情勢だったわけです。その中で、日本を現代国家として、現代、つまり当時の1920年代の現代の世界の第一線の国として立ち向かえるように、主に戦争、総力戦というものを頭の片隅において新しい国家づくりを考えるという問題意識で出発します。
これが昭和20年に至る、その後の四半世紀の日本の大きな方向を決める象徴的出来事でした。ですから、大正時代はわれわれのイメージでは非常に繁栄して、日本は三大国の一角である、あるいは国内の民主化が進んで大正デモクラシーといわれた、あるいはモボとかモガとか、非常に爛熟した消費文化がはやった時代だと、今、イメージする人は多いと思うのですが、実は大正時代は非常に日本がもがきだした時代なのです。
我が国が世界に比して、世界に伍して明治の時代に一所懸命、坂の上の雲を目指して駆け上がってきたが、これでは駄目だ、世界から遅れている、と「落伍する日本」という時代です。特に、第一次大戦にフルに参戦した国々が、よくも悪しくも超速の近代化を遂げたわけです。戦争はすごいものですね。
特に第一次大戦は国家総動員戦ですから、それが当たり前になって、イギリスをはじめとして、高度な近代産業を中心とする消費社会が生まれたわけですが、翻って日本を見れば、第一次大戦からは距離を置いて、非常に楽な、お金もうけだけができるチャンスが多くて、交戦国にどんどん輸出をし、日本産業は未曽有の発展をするわけですが、結局のところ、それは本当に身に付いた産業の発展にならなかったことが、戦後すぐ明らかになります。大正9(1920)年の不況で、途端に不況に陥ってしまいます。そんな国は日本だけなのです。それほど脆弱でした。
あるいはナショナリズムが戦後どの国でも非常に強まります。いわゆる「ウィルソンの民族自決主義」というものが、ものすごく法外としてアジアにまで及んできます。朝鮮半島では三・一万歳事件が起こり、日本からの独立に向け朝鮮民族が立ち上がります。中国は五・四運動で列強、つまり帝国主義の諸国を追い出して、今こそというナショナリズムが高まります。これは反日とつながってくるわけです。
至るところに明治日本という国がプログラム化された、富国強兵で生きてきたという世界イメージ、あるいは国家の未来像が、大正の半ばには、はっきり崩壊に向かっていました。
そこへもってきて、ロシア革命が起こります。それは共産主義という「福音」として、当時の日本の貧しい階級、あるいは観念的な知識人にはとても大きなインパクトを与えたわけですが、ロシア革命の勃発は非常に大きかったのです。
●昭和陸軍の派閥抗争には三つの要因があった
中西 それが相まって、三つの要因を考えていかなくてはいけません。昭和の日本は軍部を中心にしたので、よく「軍部の暴走」といいますが、何も当てもなく突き進んだのかというと、決してそうではありません。はっきりしたビジョンがあったわけです。こういう国にしなくては駄目だと。しかし、そこへいく合意形成、あるいは政治や国民の自覚といったものがないままに動こうとしました。 そして世界の戦争が起こってしまい、新しい戦争がまた日本周辺で起こってきます。
このような偶然というか、外在的要因には昭和の陸軍の大きな派閥抗争につながる原因があったわけだけれども、とりあえずの結論として申し上げれば、三つの要因が大きかったのです。
一つの要因は、総力戦の時代という意識が、軍、特に少壮軍人にはとても大きな未来イメージとしてのしかかったことです。これでは日本は、次の戦争では必ず敗者になる、と。日露戦争をしのぐような大消耗戦が必然の時代になったという意識が非常に強く、このエリート軍人たち、バーデン=バーデンの盟約を結ぶ3人(永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次)だけではなく、石原莞爾もこの頃には同じようなことを言っていますし、昭和の軍人たちは皆その強迫観念に完全に囚われていました。ここを理解しないと、昭和史は理解できないと思います。
二つ目の要因は、民族自決というか、ウィルソン主義というか、新しい民主主義、民主化の波が昭和の日本を洗う大きな力になったことです。特にこれを昭和の軍閥の動向に照らし合わせて考えると、軍縮で(昭和になると「粛軍」という言葉がでますが、大正時代は軍縮です)、海軍も陸軍も大幅に軍縮をします。そう...