●原人プルシャから人間や世界が生まれてきた
―― 今までの神話でも、世界の始まりなどの話を伺ってきましたが、インド神話の場合ではどういうことになるのですか。
鎌田 インド神話は断片的にいろいろな世界の始まりが語られているので、そのいくつかのパターンといいましょうか、断片をお話ししますと、多くの人が知っているのは、原人(巨人)プルシャの身体から分かれ出て、人間や世界が生まれてきたという神話です。これはもともと『リグ・ヴェーダ』の中にあるものです。
千の頭、千の目、千の足をもつ原人プルシャという存在がいて、そこから万物や人間が分かれ出てくる。例えば目から太陽が、心臓から月が、口から軍神インドラや火の神アグニが生まれてくる。呼吸から風の神ヴァーユが生まれてくる。臍から空の世界、頭から天の世界、足から大地の世界、それから耳から四方八方の方位が生まれてくる。
また人間の場合は、人間の階級・階層(「ヴァルナ」と呼ばれる)として、口からバラモン、腕からクシャトリヤ(釈迦はクシャトリヤの階級で、大名のような存在)、腿からヴァイシャ(平民、市民のような存在)、足からシュードラ(奴隷)。このような4つのヴァルナが、原人から生まれてくる。バラモンが一番高位にあるので、バラモンの体系が正当化されるような語りが、原人プルシャ神話として語られています。
あるいは、水から卵が生まれ、その卵から創造神プラジャーパティが生まれ、そこから天、空、地の3つの世界ができてきた。このような神話が、断片的に『リグ・ヴェーダ』の中で述べられています。
そして、そこには多神教的な世界が開陳されているので、たくさんの神々がいます。悪魔もいます。
日本で知られているのは、その中のアシュラです。興福寺の有名な国宝・阿修羅像は、インドの神様です。その阿修羅像は悪神的な存在、悪鬼的な存在なのですが、いわゆる「絶対悪」というものはインドにはありません。日本もそうですが、「絶対的な悪」を設定せずに、相対的に「良い」「悪い」とする。だから、悪神も良いことをする。良い神も悪いことをする。ギリシアの神々の世界もそうですが、日本の神々もインドの神々も、そういった意味では非常に相対主義的で、ある面で悲観的なところもあるけれども楽観的なところもある、ということが神話から読み取れます。
―― 例えば、キリスト教の悪魔などは「絶対悪」になるわけですね。
鎌田 非常にそれに近いですね。あるいは、ゾロアスター教は善と悪の戦いになるので、絶対悪的な存在と絶対善的な存在の二元論的な対立が世界観として1つ、確固としてある。このような対立の中から、神の優位性や、人間が持っている悪の根深さといったものが描かれます。相対主義になると、人間の中にも善的要素と悪的要素があるので、人間も両義性を持つ。つまり曖昧な部分を持つ、ということになりますね。
●人間の祖先という位置づけで描かれた2つの物語「マヌとヤマ」
―― 次に人間の起源についてお伺いします。今もお話にありましたが、原人プルシャの口からバラモンが生まれて、腕からクシャトリヤが生まれて、腿からヴァイシャが生まれて、足からシュードラが生まれてくる。この、いわゆる「カースト」を、われわれの日本から見てどう理解すればいいのか、そこがなかなか難しいように思います。その点も含めて、人間の始まりの理解として、どのように考えればいいのでしょうか。
鎌田 私から見ると、カーストやヴァルナというものは、バラモン教的宗教として、自分たちの統治(ガバナンス)の正統性を位置づける神話だと思います。だからこれ自体は、いくつか部族、氏族、種族を分けて、自分たちの階層の種族が一番優位にあるという構造を揺るがせにしないような神話体系を、まずバーンと打ち出したということだと思います。
けれども、いろいろな神話の伝承がおそらく寄せ集められてきたので、最終的には『リグ・ヴェーダ』の中にも複数の人間の始まりの伝説があり、そのため決して一枚岩ではないのです。
―― なるほど。
鎌田 その中で2つ、取り上げておきたいのは、マヌ法典などでも知られているマヌ、それから閻魔大王として知られているヤマ(閻魔)です。そのマヌとヤマは、神々の『ヴェーダ』の物語の系譜でいえば、兄弟に当たります。そして、どちらも人間の祖先のような位置づけがなされています。このあたりも非常に面白いところです。
マヌが人間の祖先になっていくのですが、これはユダヤ教の洪水神話、ノアの箱舟の神話とも非常に重なるところがあって、興味深いものがあります。
マヌが小さい魚を飼う。魚に頼まれて、その魚を飼うのです。その魚は不思議な能力を持っていて、未来のことを言い当て...