●軍縮と軍の派閥…「条約派と艦隊派」「統制派と皇道派」
前回お話しした時代背景から、具体的に統制派、皇道派の話に入ります。前回お話しした、大正時代の時代背景の中で、特に軍縮の問題が大きかったと思います。
軍縮といえば、大正時代の日本は、なんといっても海軍軍縮が非常に取り沙汰されますが、ワシントン会議で日本海軍は大幅な軍縮を迫られるわけです。これは1921年ですから、大正10年です。ロンドン軍縮は昭和5(1930)年ですが、海軍軍縮ということで日本の政治外交にとって大きな論争を生み出すわけです。
ですが、陸軍も軍縮を強いられています。有名な宇垣軍縮があります。宇垣一成陸軍大臣の下で、陸軍を一挙に縮減する、削減するという、行政改革でいえばものすごい規模の行革を強いられて、若い将校たちはこのまま陸軍に勤めていてもしょうがない、食い扶持がなくなるといって、早めに退官して街で商売をやった方がいいと、若い青年士官たちが恐慌をきたすほどの大規模な軍縮だったわけです。もう一つは山梨軍縮という、山梨半造陸軍大臣の下でやはり似たような規模で軍縮をやっています。
これは時代の風潮に流されたといったら一言で終わりですが、特にそれが政治プロセスに大きな影響を与えたことが、特に軍の反発を引き起こしました。
最初に軍の派閥を形成するのは、陸軍よりも海軍の方が早いのです。海軍はワシントン会議で軍縮を強いられます。英米の要求は、ワシントン会議だと5:5:3の比率で、ロンドンでも同じような比率ですが、それをのまされたことで不当として、日本は日本の主張をつらぬくべきだ、対米6割では国は守れないということを強硬に打ち出した、海軍の派閥抗争の一派、艦隊派ができました。それに対して、条約を守って軍縮にいそしむべきだという、国際協調を中心とした条約派があって、この条約派と艦隊派は、陸軍の統制派と皇道派に相対応する構図を持つのです。
昭和史研究者は、ほとんどこのような陸海軍を総合した視点がありません。それはなぜかというと、世界秩序が陸海軍両方に要求していた適応力が同じ方向を向いていたからで、本質的に同じ意味を持ったのです。
後でおいおい説明しますが、陸軍の、よくいわれる統制派は、経済政策の統制経済を全面に掲げたから「統制派」という名前が付いたようですが、そこだけではありません。もっと大きな意味があります。
それから、陸軍の場合は統制派・皇道派ですが、不思議なことに海軍の艦隊派と陸軍の皇道派は人脈においても近いのです。お互いに心を許して付き合っていて、「俺は陸軍、あいつは海軍だけど、海軍ではあいつはやっぱり馬が合うな」とか「海軍にも人物あり」とか、皇道派の軍人が親しみを込めて高い評価をするのは、大体、艦隊派です。これが一つです。
●統制派の立役者、永田鉄山の活躍
海軍の条約派と統制派はなんとなく国際協調重視というところで共通性もありますが、統制派はどちらかというと国際協調というよりむしろ経済界の意向が強く、経済界、産業界とタイアップして国家総動員経済をつくるときの協力者として、統制経済を国策として確立していこうというわけです。永田鉄山が毎日のように明けても暮れても産業界の指導者、経営者たちと酒席をともにして、非常に受けが良かったのです。
統制派があれほど力を持ったのは、一つには経済界が、「永田少将のいうことなら、われわれも協力しなくてはいけない」、あるいは「永田少将は陸軍きっての人材であり、将来の陸将候補だ」という下馬評が経済界を中心に、広がるからです。これは永田鉄山がヨーロッパで学んだ総力戦の理論からいうと、経済界を手なずけていくということで、計画経済への志向が非常に強いのです。
そして同時に、国策として高度な国防国家を築いていくには、政治を動かさなくてはいけません。法案を通さなくてはなりません。政界工作も永田鉄山は活発にやります。永田鉄山だけではなく、永田町に強い軍人たちが期せずして集まってくるのが統制派です。
有名な二葉会や一夕会などがあります。これは昭和史のほうに嫌というほど載っていますが、単に勉強会の名前です。もっと大きなことは、軍人としてどの方面の仕事が大事か、あるいは自分としてライフワークにしたいのは何かということを考えるとき、あるいはキャリアパスを考えるときに大切にしていたものは違ってくるということです。人間類型も違います。