●太平洋戦争初期に沈没した大型客船大洋丸
このような戦時徴用船の悲劇で、多くの方々が亡くなりました。その中でも大洋丸という船に着目しました。大洋丸は1万4,000トンの船で、当時としては大型客船です。この船は、1942(昭和17)年5月8日、戦争が始まってから半年が経過した比較的早い時期に、長崎、鹿児島の沖合でアメリカの潜水艦が放った魚雷によって沈没しています。つまり、戦争が始まってすぐの時点で、アメリカの潜水艦が日本の周りで活動していたということです。
実はまだこの時はミッドウェー海戦の前で、日本は戦勝気分でしたが、九州からすぐの場所で、800人と多くの民間人が亡くなってしまいました。軍部はこれを伏せて、ほとんど報道させませんでした。遺族たちも集められて、この件に関して口外してはならないといわれていたのです。
この大洋丸という沈没船は、こうした戦争の過程のシンボルとなっています。これは1つの戦争の実相なのですが、大洋丸を発見することでこの実相を再び皆さんの前に提示して、戦争とは何か、技術とは何かということを問いかけたいと思うのです。
先ほどの『日本郵船戦時戦史』によれば、沈没地点は北緯30度45分、東経127度40分と書かれています。これはほとんど正しい値でした。少しずれていましたが、およそそのあたりです。これを探しに行こうというプログラムをわれわれは立ち上げたわけですね。
●大洋丸はドイツで建造され日本で沈没するまで数奇な運命をたどった
この大洋丸に関する詳しい情報についてお話しします。沈没する前にもさまざまなエピソードがありますが、またあとでお話しします。沈没する直前に、広島県の宇品港を出て、企業戦士と呼ばれる多くの民間人を乗せてシンガポールに向かいました。1,360名の船客、乗組員のうち817名が亡くなりました。5月8日午後8時40分ごろに潜水艦の「Grenadier」(SS-210)に魚雷を撃たれて、沈没していったわけです。
この時亡くなった方で有名なのは、台湾でダムを造って、台湾の農業を活性化したといわれる八田與一氏です。八田氏の遺体は沈没した場所から対馬海流で流されて、萩の沖合で発見されています。このような運命を辿るわけですね。
実はこの大洋丸はドイツの客船で、「Cap Finisterre」という名前でした。1万4,000トンです。第一次世界大戦でドイツが敗れたので、賠償としてアメリカ、イギリスがこれを獲得し、最終的に日本が獲得するという歴史を辿っています。
1911(明治44)年にドイツで建造されて、まず米国の海軍籍に、そして程なくして英国籍になりました。1920(大正9)年7月に賠償船、つまり第一次世界大戦の戦時賠償として日本政府に引き渡されて、大洋丸になりました。日本政府が所有していましたが、これを東洋汽船が運航して、サンフランシスコ航路に就航していました。その後、1926(大正15)年に日本郵船が運航するようになり、1929(昭和4)年に日本郵船に所属しました。
その後、有名なエピソードとして、1932(昭和7)年のロサンゼルスオリンピック大会の選手団が搭乗しました。太平洋ではいくつか日本郵船の新型客船が走っていて、大洋丸のほうが若干小さかったのですが、このように主要な役目を果たしています。また、これもあとでお話ししますが、1936(昭和11)年に白洲次郎と辰巳栄一がこの船の上で会って議論をしています。それから1939(昭和14)年に東亜海運に移管して、上海航路に就航しました。そして戦時徴用船となって、1942(昭和17)年に沈没したのです。
それから、これは日本郵船のパンフレットから取った写真で、日本郵船のファンネルマークが付いています。
これはファンネルマークが付いていない大洋丸の写真です。
この船の航海日誌は非常に多く残っていますが、現在は東京海洋大学百周年記念資料館に所蔵されています。これはそのうちの一部で、実は先ほど言及した白洲次郎がアメリカへ渡った航海に対応する航海日誌です。皆さんの多くは航海日誌をほとんど見たことがないと思います。船長がこれを毎日付けるわけですね。左側が表紙です。日本郵船の書式ですが、右側には何をしたかが書かれています。
●大洋丸にゆかりのある人々
これは青柳恵介氏が書いた『風の男 白洲次郎』という文庫本の表紙です。その第1章冒頭部分をご紹介したいと思います。
「昭和十一年八月のことである。横浜からサンフランシスコに向かう大洋丸の甲板で、辰巳栄一は不思議...