●近海に沈没している他の船に関しても推測する
海上保安庁から情報を得た5つの物体について、大洋丸に関しては確証が得られました。それでは、あとの4つは何なのでしょうか。
われわれは「KDDI Pacific Link」を用いて4日間の調査を予定していたので、残りの4つも調べました。われわれの期待としては、りま丸、富生丸、そして錫蘭丸に加えてあと残り1つと考えていました。
こちらの地図でいうと、大5は大洋丸を指します。りま丸が沈没したのはここで、大4は海上保安庁からのデータですので、この近くを探索すると良いのではないかと考えました。そして、錫蘭丸の沈没地点はここです。Graybackという船もここに沈んでいるのではないかと思って、この辺りに描いてあります。豊浦丸はここです。それぞれの船は、やはり独自の歴史を持っています。
この中で最も重要な船はりま丸です。りま丸は大洋丸と同じく日本郵船の船で、7,000トン規模です。陸軍の輸送船として用いられました。1944(昭和19)年2月7日、モタ02船団として陸軍部隊3,241人を乗せました。どのように乗せたのかわかりませんが、大変なものですね。香港に向けて門司(六連)を出発しました。しかし、2月8日に北緯31度05分東経127度37分の地点で雷撃を受けて沈没しました。輸送兵員2,700人を含む合計2,765人が戦死しました。戦時中の日本の被害としては、かなり多いほうです。これほど多くの人が亡くなりましたが、それほど話題にものぼりませんでした。
この時期には敗戦濃厚になっています。先日NHKの番組を見ていたところ、最初は多くの人が亡くなって軍人たちは大変ショックを受けたが、戦争が進むにつれて何も感じなくなったというシーンがあって、私は唖然としましたね。りま丸についてはまたあとで詳しくお話ししたいと思います。
富生丸に関しては、実はこれも日本の船ではなく、ヨーロッパで建造されたものです。また、錫蘭丸は日本の三菱長崎が建造しました。それからGraybackという船は、アメリカのものでした。
さらにもう1つ可能性のある豊浦丸に関しては、きちんとした写真がありません。こちらは、同系船であるといわれている別の船の模型です。これかもしれません。このように、残りの4隻について考えられるわけです。
●船と船の戦いの歴史をひも解く
これらの船の辿った歴史、要するに殺し合いの歴史について解説します。大洋丸はGrenadierに撃沈されました。Grenadierは1943年に、三光汽船の長江丸という武器をつけた徴用船に沈められました。その後、Stonehengeというイギリスの船が長江丸を撃沈しました。さらに、Stonehengeは1944年2月に機雷に触れて沈没しています。このような殺し合いの連鎖があるのです。
一方で、りま丸はSnookに撃沈させられました。Snookは第九五一海軍航空隊の水上偵察機の攻撃で沈みました。さらに、富生丸はSeawolfに撃沈させられました。Seawolfはモロタイ島沖で、敵だと誤認した自国の潜水艦同士で撃ち合いになって沈んでいます。錫蘭丸はGraybackに沈められました。Graybackは九七式艦上攻撃機に2月27日に撃沈させられています。これはクエスチョンマークがつけてありますが、錫蘭丸への攻撃と同じ日付ですね。ですから、錫蘭丸のそばに沈んでいる可能性があります。
先ほどのデータはすべて日本の戦時徴用船のものなので、Graybackが沈んでいる地点は書いてありませんでした。しかし、近くにあった4隻のうちの一つがGraybackではないかと考えていました。実は昨年、日本人の方の協力によって、Graybackは見つけられました。さらに南方に沈んでいたということです。
最後に、豊浦丸はSpearfishに撃沈されています。Spearfishは生き残りました。こういうことですね。