●戦争中の大洋丸とその最期
それが平和な時の大洋丸の活躍だったわけです。戦争が始まると、物資を運ぶためには多くの輸送船が必要となります。民間船から輸送に用いるために、戦時徴用船として軍が運航していました。この「企業戦士」については、『大洋丸誌』という本からの引用を書き出しました。この点は非常に重要です。
「太平洋戦争勃発後、怒濤の勢いで進撃する日本軍。比島、仏印、馬来、蘭印と占領地域の拡大とともに、南方経済建設が急務となった。東條英機首相は、17年1月22日の予算委員会の席上、南方建設について、「まず、重要資源の需要を充足致しまして、当面の戦争遂行に遺憾なきを期しますとともに、併せて大東亜自給自足体制の基盤を確立するということを主張としているのであります」。東條英機の南方経済建設戦略で「経済戦士」が誕生したと説明した。……こうした南方占領地域の重要資源を、硝煙消えやらぬ現地で、いかに効率よく生産、集荷するかにかかっていたが、それを担当する実行部隊について、「かつて南方に経験を有し、挺身これある方々にお願いしたい」と鈴木禎一企画院総裁は、国会で答弁した」
つまり「民間の人が国のために働きなさい」と発言したのです。
「桜の季節を迎えると、陸軍の第一次南方建設部隊の派遣陣容が決定した。具体的には生産関係が拓務省、集荷関係が商工省によってそれぞれ組織された。関係会社は百社ちかくに及んだ。……各会社では、南方復員者を中心にして、派遣要員の人選が急いでおこなわれた。かくして、にわか“経済戦士”が誕生した。……千十人の専門技術者集団を乗せた大洋丸は5日19時30分、宇品を解纜した」。つまり、もやいを解いて出て行ったのです。
そして、この地図のここの地点で沈没するというわけですね。ここが九州です。ここが五島列島、甑島、屋久島、種子島。戦艦大和はここに沈んでいます。これは40年前に発見されていますね。前々回お話しした伊58はここに沈んでいます。大洋丸はこの地点です。
大洋丸がここで沈没した際に、先ほど言いましたように八田氏を含む何名かの遺体が、このように対馬海流に流されていきました。私は現在、五島列島の福江島に住んでいますが、この福江島の大瀬崎などの場所に多くの遺体が流れ着いたと聞いています。
●大洋丸探索に向けてさまざまな情報を集めた
大洋丸を探すということで、われわれはまずこの辺りをマルチビームソナーで探索します。前回、前々回にも紹介しましたが、マルチビームソナーを用いて海底面の詳細地形図を作るのです。伊58や呂500を発見した際も、同様に探索して、海底に沈んでいるものを見つけ出そうとしました。大洋丸は1万4,000トンと大きいので、かなり形が残っているはずだと思っていましたが、なかなか広い海域なので探索は難しそうです。
海上保安庁がわりと詳しい海底地形図を作っています。その地形図はマルチビームソナーを用いて作成しています。したがってその作業中に、この大洋丸が見えているかもしれないと考えたのです。
そこで、海図を調べてみました。この浅い地点に沈没船があることを示す沈没船マークが、海図には記載されているのですが、この辺りには沈没船マークがまったくありません。しかし、沈没船マークの有無だけでは結論は出せません。
海図の目的は、船が航行している際に、何か下にあるものに当たってしまって座礁することのないように、危険な部分を示しておくことです。この辺りの水深は約130メートルなので、何が沈んでいたとしても航行する船舶には関係ないために、何かがあるとわかっていても示していないのではないかと思いました。そこで海上保安庁の海洋情報部に、この付近で大きなものが海底に見つかれば報告するよう依頼しました。
日本海洋データセンターという機関が、海上保安庁の持っている海洋関係の資料を扱っていますが、その機関を経由して、地図上に示された地点にかなり大きなものが沈んでいるという情報を得ました。
実はこの「大5」というものが、大洋丸に近いのです。こちらの地図と見比べてみましょう。こちらが大洋丸で、大和はこちらですね。ほとんど同じ位置にあります。他の船もありますが、それはまたあとで説明します。この大5は大洋丸ではないかと考えたのです。
マルチビームで探索するにはお金と時間がかかるので、この点に集中することにしました。ここにROVを潜らせて、大洋丸であると確認しよう、さらに他の4つも何であるか確認しようと考えたわけです。
われわれはこのような調査チームを構成しました。私が統括して、さまざまな仲間たちを募りました。ま...