●「江戸のメディア王」になるべく錦絵に目をつけた
―― では、続きまして、前回が狂歌と版本ということでしたけれども、蔦屋重三郎というと浮世絵のイメージを持つ方も多いと思いますが、今回、その浮世絵が中心ですね。
堀口 そうなのです。浮世絵の中でも、多色刷り、フルカラーの錦絵ということなのです。
―― 錦絵ですね。
堀口 極彩色の浮世絵ということです。
最初、鈴木春信という人がつくりましたので、春信の絵のことを最初は錦絵と言っていたのですが、みんなが真似をしたので、多色刷りの浮世絵のことを錦絵と呼ぶようになりました。
さまざまな出版物の中でも、錦絵というのは花形というか、現代だと映画みたいな感じで、小説があって、テレビがあって、ネットがあって、いろいろなエンターテイメントがありますけれども、映画化をして大ヒットするというのが、大衆に認められた一つの証しになるというようなところで、ステイタスシンボル的な意味があったのが、この錦絵なのです。やはり蔦重も、名実共に江戸のメディア王になるためには、錦絵で大成功する必要があったわけで、参入のキッカケを狙っていたわけですね。あることをキッカケに、ついに勝負に出たということなのです。そのキッカケというのが寛政の改革です。
―― なぜ寛政の改革がキッカケになるかというところでございます。
堀口 そうです。
●緊縮的な政策がとられた松平定信時代に詠まれた狂歌
堀口 大胆な経済政策が取られた田沼時代が終わりまして、代わりに老中になった松平定信が主導し、天明7年(1787年)から寛政5年まで、6年間にわたって断行されたのが、この寛政の改革です。ひと言でいえば、田沼時代の否定ということになるのですが、それまでと打って変わった緊縮財政の政策が取られました。ただ、厳密にいうと、田沼時代の末期は天災が続きましたから、もう緊縮財政政策が取られるようにはなっていたのですけれども、さらに松平定信という人は、この質素倹約を推し進めていって、庶民の娯楽にも規制が入るようになって、出版統制も厳しくなっていったという時代なのです。
前の時代が解放的だっただけに、人びとはそういう息苦しさを感じていたらしくて、こんな狂歌もつくられました。「白河の清きに魚(うお)のすみかねて もとの濁りの田沼恋し...