●ヨーロッパの歴史の一部という自覚の下、作品を書いた晩年のバッハ
これはハウスマンという人が描いたバッハの肖像画です。確か、バッハ63歳の時のものです。バッハは65歳で亡くなりますので、かなり年を取ってからの肖像画なのです。頭にカツラをかぶっているので、これは正式な礼装です。バッハはこの当時、すでにザクセン選帝侯国の宮廷作曲家という、大変名誉ある称号を得て、ヨーロッパの大音楽家の1人になっています。出世するところまで出世した彼が、自分の姿をこのようにとどめたかったという意図がよく分かります。
手に紙を持っていますが、これは自分で書いたカノンの楽譜です。もともとバッハの弟子だったミーツラーという人が始めた音楽学術協会がありましたが、そこの会員は、学識ある音楽家、つまり誰が聴いても立派な音楽を書いた音楽家しかなることができませんでした。バッハは、その協会の会員になるという、大変な名誉を得たのですね。これは、その時の記念肖像画です。したがって、やはり少し照れくさそうでもありますが、満足げですよね。
前回少し述べたように、パワハラに遭っていたということも事実ですが、晩年のバッハはあまり気にしていなかったでしょう。パワハラに遭ったので、教会での仕事は最低限でこなしました。「教会カンタータ」は新作である必要はありませんでした。すでに200曲程度書いていたので、それらを入れ替えながら上演していました。あるいは、他のめぼしい作曲家の作品を上演していました。それで構わなかったのです。
バッハの上役たちは、バッハの作曲家としての真価には、あまり興味がありませんでした。学校の先生ですから、普通に授業をしてくれれば良いと思っていました。世の中、そういうものですね。バッハも割りきっていて、上役たちが彼の真価を分からないのであれば最低限の仕事をこなして、あとは自分の芸術のために時間を使おうと思っていたのです。
晩年のバッハが、今日お話しした中世、ルネサンス、バロックと綿々と続いてきたヨーロッパの音楽の美しい歴史の最後にいるのだという自覚を持っていたのは、はっきりしています。つまり、そうした歴史にのっとった自分の芸術が、新しい世の中になって否定されかけていると感じたのです。そして、分からない人間に聴かせてもしょうがない。それでも、必ず芸術の意味が分かっている人たちがいるのです。その人たちのために、あるいは、自分が死んでも自分の芸術を分かってくれる人たちのために、作品を書こうと考えたに違いないのです。
そうして、例えば「音楽の捧げ物」や「フーガの技法」などという傑作が生まれました。とにかくありとあらゆるジャンルで最高の音楽を作りました。彼は最期には、おそらく緑内障になって手術を受けたのですが、手術が失敗に終わり、病気になって亡くなってしまうのです。
ヘンデルも同じ医者が手術して、失敗して亡くなりました。大作曲家2人を殺した医者がいるのです。しかし、名医だったことは確かなのです。当時は麻酔も抗生物質もなかったので手術自体が危険だったわけで、仕方がなかったと思います。
●バッハ最後の曲をめぐる真相
バッハの最後の作品となったのは、「ミサ曲ロ短調」という作品です。先ほどもお話ししたようにミサ曲はキリスト教音楽の中核をなすものです。バッハも晩年には、短いミサ曲をいくつか書いています。なぜかというと、ザクセン選帝侯国の選帝侯が、ポーランドを治めるために、ルター派から突然カトリックに改宗したのです。ポーランドの王様になるにはカトリックにならなければなりません。そのためにカトリックに改宗して、ポーランドの王様も兼ねるようになりました。
それに伴い、ザクセンの教会音楽は突然、カトリックの要素がふんだんに入るようになって、バッハももちろんそれに対応しました。いくつかそれぞれ素晴らしい小さいミサ曲を書いています。
しかし最晩年に、バッハは長大なミサ曲を作曲しました。それが「ミサ曲ロ短調」です。これはなんとか完成させましたが、上演を見ることなくしてバッハは亡くなってしまいます。この曲が書かれた理由はしばしば議論の的になりますが、一番考えやすいのは、ドレスデンのザクセン選帝侯の宮廷のためであろうということです。宮廷礼拝堂(カトリック旧宮廷教会)が延期のすえに1750年頃(バッハ死後の1755年)に落成しました。おそらくそこで上演することを目論んで、ザクセン選帝侯宮廷作曲家としての仕事でバッハはこの曲を書いたのではないかといわれています。これが最も常識的な答えですが、さまざまなことが考えられます。
バッハは幅広く交際を持っていたので、例えば今のチェコのあたりの貴族とも、付き合いがありました。もちろんカ...