●19世紀音楽を語るに欠かせない「パリ」という都
―― 前回は、市民革命の時代を象徴したような音楽がベートーヴェンとベルリオーズのところで来たというお話をうかがいました。この後、ベートーヴェンに憧れて作曲家になっているのが、例えばワーグナーであり、彼に続く人びとがやってくるわけですね。
非常に特徴的なのが、たとえばベートーヴェンの交響曲第三番『英雄』は60分ぐらいの曲です。これが第九になると、CDの長さを決めるときに「カラヤンが『第九』が入る長さでと言った」ため、74~75分の規格ができたという有名なエピソードがありました。そのように70分ぐらいの曲まで行ったため、音楽自体がますます肥大化ないし巨大化していく流れがドイツに出てくる。
例えば、ワーグナーになると、『ニーベルングの指輪』というオペラは4夜連続で見ないと、話が終わらない。そんな膨大な曲ができたため、その後のブルックナーやマーラーになると、平気で70~80分という長さの曲を聞かせるような、拡大志向の曲ができてきます。これは、実に19世紀的ですね。
ワーグナーが生まれたのは1813年、亡くなったのは1883年です。ブルックナーは、1824年生まれで、1896年という19世紀末に亡くなっています。マーラーの場合、1860年に生まれて1911年に亡くなっている。みんなまさに19世紀後半から20世紀にかけての時代の人たちであるわけですが、この頃はヨーロッパの帝国主義的な動きが産業革命と相まって、非常に巨大化していく時代であり、音楽もそういう様相を示してきたということかと思います。この時代の特徴的なものについて、先生はどのようにご覧になっていますか。
片山 ワーグナーのオペラを考える場合には(ベルリオーズとも関係しますけれども)、一つ、パリの話をしたほうがいいかもしれません。
ワーグナーは「パリでオペラ作曲家として成功したい」という夢を抱いていました。なぜならば当時は、ロンドンもそうですけれど、やっぱりパリが「世界の都」と呼ばれていたような時代で、音楽的にも中心だったからです。例えばイタリア人のオペラ作曲家ロッシーニなどもパリで成功して、パリで暮らしていました。
当時の世界で最も豊かな街の中心であるパリとロンドンに集まってきたのは、帝国主義的な富です。フランスやイギリスの発展は、世界に植民地を獲得していくことによって得られたものですからね。もちろんそれは、スペイン、ポルトガル、オランダが先駆けて行ったわけですが、その後で圧倒的に植民地を獲得したのがイギリスです。そこへ、少し遅れてフランスが出ていく。そのようなことをやっているなかで、帝国主義的な娯楽の頂点として、パリのオペラ座におけるオペラ文化が花開きます。
●ローマの終日宴会を真似たパリのオペラ座見物
片山 オペラ座のとくに中心的な作曲家としては、マイアベーアという人がいました。彼はもともとドイツの人なんだけど、名前はジャコモとイタリア風で、つまりユダヤ人なものですから、世界のどこに行ってもいいというような発想を持っていました。
―― コスモポリタニズムを感じさせますね。
片山 世界中の富が集まるパリには、ヨーロッパ中のいろんな国の人間が集まって暮らしていました。そうなると、歴史に残るメディチ家のような富を誇った人々の暮らしへの憧れのようなものが出てきて、彼らが一日中宴会をしていたようなことの疑似体験として、長いオペラが好まれるようになったんです。
―― それはどういうことですか?
片山 つまり、パリのオペラ座に行って、例えばマイアベーアのオペラを観劇するとしたら、休憩なども入れて6時間ぐらいになるんです。
―― 6時間?
片山 うん。正味でも4~5時間、つまり一日中やっている感じです。江戸時代でも、繁栄した頃の歌舞伎見物は一日がかりでしたね。
―― 歌舞伎も長いですね。
片山 一日がかりで歌舞伎を観にいけるというのは、ステータス・シンボルです。「今日は、うちはもうお店は閉めて、手代も含めてみんなで歌舞伎ですよ」みたいな感じです。そんなことで高い席を買いきって、みんなで一日中見て、帰ってくる。そんなことができるのは、余裕のある暮らしの象徴じゃないですか。
●長時間オペラを見ていたい、けれども実情は…
片山 パリのブルジョワの場合、「今日はオペラ座だ」と、一日中オペラ座で見物していたい。でも、オペラというものを一日中、最初から最後まで一生懸命見るような習慣は、彼らにはない。ちょうどハイドンの時代に、彼の交響曲をロンドンで聞いていた人たちが飽きていたのと同じですね。
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