●心配りと金融を重んじていた田沼
さて、次は田沼意次自身が書いたといわれるもので、かろうじて残っている「田沼意次遺訓」から人物像を見ていきます。
これは第1条から7条にわたり、特に7条では財政のことについて触れ、別紙もつくって詳細に述べています。
全体的には、おおむね主君や親、親族、家中の者や他の偉い幕閣への心配りについて述べているのですが、特に注目すべきは、全方位に向けた気配り、心配りの大切さを述べていることです。
また、3条では、身分にかかわらず接することの大切について述べており、さらには5条にもあるように武芸だけでなく遊芸への理解などがあることも特徴です。そして、7条にもあるように、特に財政については、臨時出費に備えた心掛け、金利の水準にも言及しつつ、借金を重ねると返済が雪だるま式に増えていく仕組みについて述べています。よほど金融・財政について一族に考え方を伝えておきたかったのでしょう。
●老中は「会いにいける殿様」だった
また、下段で老中の仕事の一部を示していますが、老中というのは、実は「会いにいける殿様」だったのです。「対客日」などといわれるもので、月番の交代制で、月に何度か朝6時から登城時間の10時まで、大名から旗本、商人・職人の陳情・挨拶を受ける日が設定されていました。
もっとも、誰に会うかどうかは各老中次第だったと思われますので、全ての老中に庶民が会いにいけるわけではなかったと思いますが、意次は上記遺訓にも残しているように身分の差別なく接する人だったので、門前には朝早くから行列ができていたといわれています。
なにか一昔前に目白の田中(角栄)邸に陳情者が列をなしていたのを思い出します。おそらくこういったことも、賄賂政治家のレッテルが貼られるようになった要因の一つではないかと思いますが、当時こうしたことは、範囲や程度の差こそあれ、制度上、老中がやることとして定められていたものでした。
また、アイデアマン意次のブレインは誰だったのかというと、誰か海外事情など最先端の情報に通じた優秀なブレインがいないとこれだけのことを実行するのは難しいと感じますが、著名な学者などは特定できず、彼が用いた人々は、当初はあまり身分の高くない人が多かったように思います。
下にそういった人々の例を...