●統一通貨の鋳造を試みた田沼意次
さて、次に、こうした中で田沼意次はどんな通貨政策を行ったのか、です。彼は、この元文の改鋳、金融緩和策を受け継ぎつつ、東西貨幣の統一、並びに銀貨による恒久的な通貨発行権の確保を試みます。
上の囲みを見て頂きたいのですが、まず江戸は金本位であり、一両=4分=16朱という4進法の通貨単位で貨幣が流通していました。
一方、大坂は銀本位で、下のいちばん左の写真にもあるように、こちらは丁銀という重さで測る秤量貨幣(しょうりょうかへい)が流通していました。金と銀の交換比率為替レートも変動しており不安定であったため、江戸の金本位に銀の通貨も統合する構想の中で実施されました。
これまで述べたように、江戸周辺の経済圏も発達し、単なる消費市場ではなく、大坂と相互にモノが行きかう商流が発展していたという背景があること見逃せません。
手順としては、まず、下の写真真ん中の「五匁(もんめ)銀」なるものが発行され、幕府公定レートの1両=銀60匁に従って五匁銀12枚で金1両と交換させる目的で鋳造しました。ところが、実勢レートは1両=63匁くらいで、実勢とかけ離れていたため、なかなか流通しませんでした。
これでめげないのが意次で、その後は良質な銀で作った南鐐2朱銀を発行。1両=16朱なので、右下の写真のところにもあるように、「8枚で金1両と交換する」とこの銀貨に明記した上で、銀貨を金貨の補助通貨にすることを目指します。
実は、この銀貨に含まれる銀の含有量は、同じ価値の丁銀に含まれる含有量よりも少なく、これが幕府の通貨発行益にもなりました。一方で、銀の量が少ないのに世間に受け入れられたのは銀貨が良質であるというのがミソで、「南鐐」とは良質という意味です。ここで使われた銀は、前に見た、長崎貿易で俵物を輸出し得られた銀が使われたともいわれています。いろいろなところで意次の政策がつながっているのは面白いところです。
とはいえ、これも当初は両替商の抵抗に遭いました。両替商は単位通貨の金と重さで測る丁銀の交換という手間のかかる両替で手数料を取り利益を得ていたので、権益がなくなると抵抗したのですが、良質の銀であることと、半ば強制的に従わせたこともあり徐々に浸透するようになります。おそらく他に何らかの条件とあわせて...