●江戸時代の最初の隆盛期・元禄期と重なる石田梅岩の生涯
今日のお話の流れとしては、石田梅岩とはどういう人なのかというお話をした後、梅岩教学(の話に移っていきます。ただ梅岩教学を)一番理解しやすいのは、直接梅岩に当たるのもいいのですが、反対に、梅岩(の生涯)からさかのぼって梅岩(教学)に至るまでの思想哲学、要するに商道、経営道といってもいいのですが、その流れがどのようになっていて、それを梅岩ががっちり受け止めて、自分の思想にまとめたかということで、多くの方はそこを見逃しているような気がしてなりません。
幸い私の専門はそこだったので、その淵源からずっと梅岩までの思想の流れ、経営道の流れをお話ししますと、「梅岩の思想が非常によく分かる」と皆さんに言われるので、次にそのお話を申し上げることにしたいと思います。
まず梅岩という人の生涯について、私が作った図が「石田梅岩の生涯」です。ラフで雑駁なもので申し訳ないですが、これを見ていただきます。1603年は家康が征夷大将軍になり、江戸幕府が開かれた年ですが、それから82年たった年(1685年)に梅岩は生まれるということです。梅岩が亡くなるのは1744年。ちょうど60歳なので、梅岩の人生は60年間だったということです。
(この図から、)まず梅岩の一生を俯瞰で見ていくと、日本の江戸時代で一番隆盛を極めた期間は、元禄期と文化文政期(化政期)の二つですが、江戸時代の最初の隆盛期である元禄期(1688~1703)は、すっぽりと梅岩が育つ過程に重なるので、そういう時代的風潮も(彼に影響が)あったと思われます。
●「町人の時代」を準備した家康の政策
なぜこれを前提に考えていただきたいかというと、やはり町方、商人をはじめとする農工商の立場は上から馬鹿にされることもあったし、実際に戦乱の世の中は生きづらかったということがあります。
どれほど一所懸命に田畑を耕しても、一気に軍勢が駆け抜ければ、それでもう一年間は何も獲れないような状態になります。また、当時(戦国時代)は群雄割拠の時代ですから、町人のようなものは、何かの都合で武士から斬られても何も言えないということで、命の危険もたくさんありました。
それを(変えたのは)家康です。彼が征夷大将軍になったのは(1603年)2月でしたが、町人の心をよく知っていた...