●民間の薬種店の保護で実現した医療を充実
堀口 そして、この駿河町よりもさらに前に家康が開発に着手した町がございまして、それが本町の薬種店というエリアなのです。駿河町の1本北側の道筋になります。本町というのは、開発の根本になる町という意味で本町です。この通りは江戸城の常盤橋御門という門から始まっておりまして、奥州街道につながる町なのです。
家康公は天正18年(1590年)に江戸入りをしたときに、まだ豊臣秀吉の家臣という立場でした。そして秀吉の奥州仕置という、奥州方面の大名たちを征圧するという政策にかなり積極的に関わることで存在感を増していくのです。ですので、江戸から奥州への街道の整備というのが江戸入りをした家康公に任された重要なミッションだったわけです。つまり江戸幕府が開かれる前、秀吉の家臣時代からメイン通りとして整備したのがこの本町筋だったわけです。この本町通り沿いというのは、ある業種の店が集まっていることで有名でございました。何かピンときますか。
―― これは看板を見たほうがいいですね。
堀口 そうですね。
―― これは何と書いてあるのですかね。
堀口 そう、看板などを見ていただくと、「薬種」というふうに書かれていたりするのがわかるかと思います。薬種店、つまり漢方などのお薬を扱うお店が多かったということなのです。家康が本町を整備すると、ここに小田原の薬種商の益田友嘉(ますだともよし)という人が入ってきます。まず江戸城を造る普請工事のために体調を崩してしまう人がいたわけです。そういう人たちのためにお薬を処方したのが始まりと言われています。この江戸城の工事のときは「五霊膏」という目薬が評判だったそうなのです。
―― 需要と供給のバランスではないですが、町普請でたくさん人が集まってきたときに、薬があるというのは大事なことですね。
堀口 はい。やがてこの『江戸名所図会』に描かれている「いわしや」というお店なのですが、こういった数々の薬種のお店が進出してくることになります。路上に面して立派な看板が出ていますが、これを建看板(たてかんばん)と言います。これは官許、つまり幕府が許可をしないと出せない格式ある看板の形なのです。
―― この屋根が付いている?
堀口 そうですね。これが幕府公認の薬種店ということなのです...