●往来の激しかった両国橋
堀口 『江戸名所図会』に戻ってみましょう。両国橋を対岸に向かって渡っていきたいと思います。
―― はい。
堀口 橋の上にもやはりたくさんの人が出ていますよね。
―― そうですね。この絵で見ても、数えてみたら楽しそうですが、挫折するくらいの数が描かれていますね。
堀口 そうなのです。実際にどのくらいの人数が通るのだろうということが書かれた資料があります。
―― はい。
堀口 これは明け六つから暮れ六つですから、つまり日の出から日の入りまでに両国橋を往来する人数のカウントなのです。これがおよそ2万5000人程度だったといわれているのです。
―― これはすごい数ですよね。
堀口 当時、江戸で人口が100万人の時代ですから、すごい人数が通行していたわけです。
―― はい。
堀口 この絵では花火が上がっていますので、夜の風景です。夜になってもこれだけの往来があったということがわかります。
●一説には死者を弔うためだったともいわれる隅田川の花火
―― というと、夏の花火大会というのが一種の風物詩ですけれども、江戸の花火は、やはり隅田川とか川で行われることが多かったのですか。
堀口 おっしゃるとおりです。両国橋を挟んだ隅田川というのが江戸の花火大会の会場になりました。上流と下流が花火大会の会場だったのです。
―― これはなぜ川でやるのですか。
堀口 もともとは市街地でもやっていたのですけれど、江戸時代の初め頃に、花火は火事の原因になるということで、市街地では禁止になりました。そして隅田川、もしくは海辺などの場所で許されることになったという背景があります。
―― はい。
堀口 8代将軍吉宗の治世である江戸時代の中期から隅田川、両国橋での花火が盛んになっていったということなのです。一説によりますと、当時、大規模な飢饉と疫病が発生しまして、多くの犠牲者が出ました。これは事実なのですけれども、その死者を弔うための花火を上げたのが始まりだという伝承も有名にはなっております。
―― 長崎とかでも、精霊流し(しょうろうながし)とかだと、いまでも爆竹をバンバンとやっていたりしますけれど、やはり花火を上げるのは一種の弔いという意味も持つのでしょうね。
堀口 そうですね。あれだけ大きな音が鳴り、光が出ると...