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葛飾北斎も描いた、江戸随一の遊び場「両国」の風景

『江戸名所図会』で歩く東京~両国(1)繁華街として栄えた両国

堀口茉純
歴史作家/江戸風俗研究家
概要・テキスト
江戸時代後期に書かれた地誌『江戸名所図会』(えどめいしょずえ)を見ていくと、江戸時代の街の様子や人々の暮らしぶりを知ることができる。今回は、繁華街として栄えた「江戸の遊び場」を解説する。まずスポットを当てるのは、橋の建設をきっかけに発展した両国だ。(全3話中第1話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:08:37
収録日:2024/06/05
追加日:2024/09/22
≪全文≫

●両国は「江戸の遊び場」だった


―― 皆様こんにちは。

堀口 こんにちは。

―― 本日は堀口茉純先生に、「『江戸名所図会』で歩く東京~両国編」ということでお話をいただきたいと思います。堀口先生どうぞよろしくお願いいたします。

堀口 お願いいたします。

―― これまでの「『江戸名所図会』で歩く東京」では、日本橋界隈と新宿界隈で、新宿あるいは十二社(じゅうにそう)、あと上水ということで、いろいろなお話をいただいてまいりましたが、今回はどちらのお話になりますでしょうか。

堀口 今回は「江戸の遊び場」ということで、繁華街を取り上げたいと思います。

―― いいですね。

堀口 いまの東京でいいますと、渋谷とか新宿がパッと思い浮かぶところかと思うのですけれど、江戸時代においては「両国」という場所が江戸随一の遊び場、繁華街でした。

―― 両国というと、いまですとやはり両国国技館で、相撲の町、ちゃんこの町というイメージも多いですが、当時は本当の繁華街ということなのですね。

堀口 そうですね。娯楽であったりと、いろいろなことを求めて江戸でいちばん人が集まってくる町というイメージです。


●両国橋の建設によって開発が進んだ両国


―― はい。これはなんで「両国」というのですか。

堀口 両国というのは少し珍しくて、江戸時代に隅田川に架けられた「両国橋」に由来する地名になっております。

 江戸時代の初期は、隅田川が江戸城のある武蔵国(むさしのくに)側と、下総国(しもうさのくに)の境目になっていたので、防衛上の理由から橋が架けられていなかったのですが、1657年(明暦3年)にあった「明暦の大火」というたいへんな火事で、ここに橋が架かってなかったことによって江戸市中側で被災した多くの人たちが逃げ場を失って、亡くなってしまったのです。

 そこで、幕府は都市設計を改め、江戸市中で何かがあったら隅田川を越えて人が対岸に逃げられるように大きな橋を架けたのです。初めは単に「大橋」と呼ばれていたのですが、武蔵国、下総国の両国を結ぶ橋ということで、両国橋と呼ばれるようになったということです。

―― はい。

堀口 江戸名所図会にも3枚続きの大きな画面で紹介されているのです。

―― これは3枚続きというのがいいですね。いまでも雑誌でグラビアなどがあ...
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