●江戸の町人地とはどこか
―― それでは、「『江戸名所図会』を歩く」の続きということになりますが、次はどのシーンでしょうか。
堀口 はい。前回までは家康の都市計画の中でも、道三堀という水路であったりとか。
―― 日本橋の下に流れているという。
堀口 それから道路ですね。五街道の起点となる日本橋というところに注目しました。今回は町人地の設計をする上でポイントになる部分を見ていきたいと思っております。
―― 町人地というと、大体どこの城下町でもそうですが、武家の世界と、町人の世界が分かれていることになりますが、江戸ではどのあたりが町人地になるのですか。
堀口 家康公がつくった頃の町人地、いわゆる城下町、下町として想定されていた部分というのは、江戸城からほど近い、極限的に狭い意味で言うと、日本橋から京橋のエリアになります。含んでも神田ぐらいです。ここが本当に江戸で下町と言ったときのご城下町というエリアになります。
―― そうすると、やはりそこで育った人からすると。
堀口 もう、ちゃきちゃきの江戸っ子ということです。
―― ど真ん中というところになるわけですね。
堀口 そうですね。
●富士山を神聖視する家康や庶民にとってうってつけだった駿河町
―― その町人地の話でございますが、この『江戸名所図会』で見るのはどこのシーンでしょうか。
堀口 駿河町という町を見ていきたいと思います。こちらは日本橋からほど近い駿河町という町なのですけれども。この通りから江戸城越しに駿河国の富士山が見えるということが名前の由来です。
―― これは印象深い絵ですよね。ど真ん中に富士山が見えます。確かに、今の東京からでも少し高いところに登るとこのくらいの雰囲気で富士山は見えますよね。
堀口 けっこう見えますよね。
―― 縮尺的には、案外ずれていないのかなという感じもします。
堀口 おそらく、このように道の正面に堂々と見えたのでしょうね。本当に、これを測ると富士山の正面と道の直線が1度くらいしかずれがないそうです。
―― なるほど。
堀口 駿河国、富士山というのはすごく江戸の都市設計に重要な意味をもっていたのです。というのも、徳川家康公は慶長8年(1603年)に将軍になって、わずか2年2カ月ほどで将軍職を2代将軍の秀忠に譲ります。それで、自分は大御所として実権を握ったまま、今の静岡である駿河国に移り、駿府城を拠点としたわけです。そして、1600年の関ヶ原の戦いで勝利したお礼に、富士浅間神社のご社殿を造営したり、非常に富士山を神聖視していたということでも知られています。
たとえば、初夢で見ると良いとされるものを「一富士二鷹三茄子」と言いますが、一説には、これは家康公のお好みのものであるともされています。もちろん、富士山自体が古くから日本人にとっては「ふじ」つまり「不死」、死なないにつながるとも考えられておりまして、信仰の対象になっていたこともあるのですが、富士山を非常に大切にして、町を設計しました。
―― 今でもたとえば富士塚のようなものが神社によってはあったり、あのあたりは一般庶民の人も含めて富士信仰というのがかなり根強かったということですよね。
堀口 町では、とくに富士塚などは江戸時代中期から後期にかけてたくさん(つくられ)、自分はなかなか富士山にお参りには行けないので、町中でせめてミニチュアの富士山をお参りしようというようなこともあったぐらい、富士山はとても江戸の人たちにとっては特別なものだったのです。
―― それが道のド正面に見えるというのはすごいですよね。
堀口 そうなのです。この絵を拡大するとよくわかるのですが、手前側に町があります。そして、やや真ん中の奥のほうに木がたくさん植えられているエリアがありますね。
―― ございますね。
堀口 この中にたくさん櫓(やぐら)が見えます。これが江戸城の櫓なのです。
―― なるほど。こういう距離感、位置関係になるわけですね。
堀口 そうなのです。地形的に少し江戸城が高くなっているので、台地状のところに江戸城が造られていて、少し町人地からは見上げるようなところに江戸城の櫓が見えます。そして、その先に富士山が見えるということです。
手前側の町の通りをよく見ると、途中に張り出したような、小屋のようなものが見えます。
―― ありますね。
堀口 これが町木戸という、町と町との境目の、玄関口のような場所なのです。江戸時代には町ごとに玄関口になる、いわゆる町木戸という木戸がありました。夜は「四つ」ですから、今でいうと夜の10時頃にここのゲートが閉まります。そして日の出の30分前、いわゆる「明け六つ」に開くという形になっております。要は町ごとに門限があっ...