●「人間の位置づけ」が神話によって異なる
―― 皆様、こんにちは。本日は鎌田東二先生に、「世界神話の中の古事記・日本書紀」というテーマでお話をいただきたいと思います。先生、どうぞよろしくお願いいたします。
鎌田 よろしくお願いします。
―― この講義シリーズでは、『古事記』『日本書紀』について、また世界神話の中での日本神話について、数回に分けてお話をいただきます。
まず総論として、世界神話という観点から見たとき、古事記神話、日本書紀神話について、世界神話と共通している部分、あるいはそれらが特別な部分など、どのように捉えておられますか。
鎌田 まず「人間の位置づけ」、神と人間の関係がどうなっているかということが、神話の中での一つの重要なポイントです。私たちがどこから来てどこへ行くのか、この世界がどのように出来上がってきたのか、その中で人類がどのように生まれてきたのか――そういった宇宙の始まり、世界の始まり、人類の始まり、文化の始まりを「創世神話」として語ることが、根本の原型的な物語です。
神がどのように人間を創造したのか、あるいは神がどのように人間へつながっていったのか。この辺りが、例えば『旧約聖書』の物語と、日本の『古事記』や『日本書紀』の伝承の物語とで、ずいぶん違います。それからメソポタミアの物語ともずいぶん違うのです。
今回の主要な話としては、シュメール文明などのメソポタミア神話、ユダヤ教の天地創造の神話、日本神話の3つを比較しながら、そこにおける「人間の位置づけ」について考えていきたいと思います。
―― これは非常に興味深いテーマですね。
鎌田 川上さんは、この3つの神話で、「人間の位置づけ」についてどのような違いがあると思いますか。
―― 不勉強ながら、メソポタミアの神話についてはあまり存じ上げないのですが、ユダヤ教の『旧約聖書』では、神が自分を模した創造物として人間を作りますね。対して日本の神話では、神様が次々と生まれてくる描写はあるのですが、人間はどうなのかということが非常に曖昧ですね。
鎌田 そこなのです。「人間の位置づけ」が、日本の神話では非常に曖昧です。神と人間の連続性、系譜的なつながりの中で、どこからが神で、どこからが人間なのかということが不明確なのです。だから、神も人間的だし、人間も神的です。徳川家康も菅原道真も神として祀られているわけですから、神と人間の境界という、はっきりとした断絶線、分裂線がないのです。
―― つくった・つくられたという関係ではないですよね。
鎌田 樹木などのような生命的なリレーというか、連続線の中にあるわけですね。メソポタミア神話とユダヤ神話の大きい違いは何か。人間がどのような役割で生まれてきたのかについて、ユダヤ教の神話では「神の似姿(イメージ)として作られた」と言います。だから、人間は神様に近い存在です。
―― 人間の姿形が神様のイメージということですね。
鎌田 神は目に見えないし、超越的な存在なので、神を実体化することはできないにしても、そこで書かれている文言は「人間は神のイメージ(似姿)として作られた」というものです。神の似姿ということで、人間は非常に重要な意味合いを持っているわけですね。
ところがメソポタミア神話では、人間は下級神の労働の役割を担うためにつくられた、と言うのです。
―― 人間は働くために生まれたということですね。
鎌田 奴隷やロボットのような存在としてつくられた。しかも粘土からつくられた、と。メソポタミア神話もエジプト神話も、基本的には神道と同様に多神教です。マルドゥク神などのいろいろな神様がいる。天・地・風といろいろな神々ができ、そのような点では日本の神々の生成と似ている面があります。ですが、「人間の格づけ・位置づけ」が大きく違うのです。
―― 人間の位置づけはずいぶん低いですね。
鎌田 非常に低い。なぜそうなったか。王権を正当化するためには、特別な人間をつくらなければいけません。王様は神の血筋である、神の威力を持っている存在である、と。そのため普通の人間は、そういった特別な王のような存在ではなく、仕事をしなければいけないのです。
―― 初めから奴隷のような存在が前提になっているわけですね。
鎌田 ジグラートやピラミッド、スフィンクスといったものを造るにあたって、使役されるためにつくられた存在です。上級神、中級神、下級神がいて、その下級神格のさらに下の位置づけとなります。ヒンドゥー教あるいはバラモン教で、バラモン、クシャトリア、バイシャ、シュードラ、そしてアウトカーストといったカーストで例えるならば、人間は一番下の格づけです。下級神の労働を肩代わりする形で、人間がつくられたのです。
ところが、そのような物語をユ...