●発見と総点検を兼ねて、50歳からの「学びの姿勢は自由でいい」
―― 皆さま、こんにちは。本日は童門冬二先生に「50歳からの勉強法」ということでお話をいただきたいと思っております。童門先生はこちらの『50歳からの勉強法』という、まさにこの本をサンマーク出版さんの方からお出しになっておりまして、こちらをもとにいろいろお話を聞いていきたいというように思っております。先生、どうぞよろしくお願いをいたします。
童門 よろしくお願いいたします。
―― 先生、この本はまさに勉強法から、先生の作家としての在り方ですね。どのように文章を書いているか、またその文章法までという、非常に幅広いことが書かれた本で、大変勉強させていただきました。今回は特に勉強法に絞ってお話を伺いたいと思っております。
とても印象深い言葉が随所にございますものですから、今回はそれをピックアップしながら、その心得について教えていただければと思います。いくつか分けさせていただいたんですが、まずは一つ、総論的に50歳から勉強する、ある程度人生を積み重ねた上で勉強するという心得の総論的な部分から行きたいと思います。
先生は三つ挙げておられまして、一つ目は「学びの姿勢は自由でいい」、二つ目は「教科書は世間にある」、三つ目は「孤独を覚悟せよ」です。これらはそれぞれどういう意味でましょうか。
童門 50になれば、例えば食べ物でいうと、定食コースで最後のお菓子とコーヒーが出るまでのプロセスは一応踏んできたろうと。だからやっぱり自分の人生ですから、大切に誠実に生きていれば、種を蒔いたものがその頃には収穫の時期に来ているということもたくさんあるだろうと。
―― それは知らず知らずで育っているということですね。
童門 自分では気がつかないけれども、育ててきたんだなということですね。そうすると、それを収穫するときに、今度は振り返りをするだろう。何をやってきたんだろうかと。だから、ディスカバーと同時に総点検というのかな。自分で自分の前半生に対するそれも兼ねて、意味があるんじゃないかなということです。
―― そこがまさに、だからこそ「学びの姿勢が自由でいい」わけですね。
●「教科書は世間にある」とは、見方を柔軟に移動すること
―― では「教科書は世間にある」というのはどういうことでますか。
童門 それはですね、やっぱり自分一人では何をしようとしてもできませんから。今までにもいろいろと多くの人と接してきただろうと。特にビジネスマンの場合には上司、あるいは同僚、部下、いろいろな人とコミュニケーションを図ってきたと思います。そうすると、そのときには知らん顔をしたり、あるいは好き嫌いもあったりして、身を入れて付き合っていなかった人でも、これから第二の道を歩こうというときには、何か違ったものさしになってくるはずなんです。
ということは、人間というのは、僕は現実の人でも歴史上の人物でも、こういう円筒形だと思っているんですよ。だから、年齢の若いときには、こういう視点(例えば正面)に立って見ていたところが、職場における職位が上がるに従って、観測視点が移動していくだろうと。
―― 同じ円筒を見るにしても、見る人の位置が変わってくるということですね。
童門 場合によっては、50歳になったとき、20歳代で見ていたのと全く反対の見方になることもある。そういう目というのかな、立ち位置の移動、観測地点の移動というものも大事にしましょうと。いわゆる流動性をもって付き合うということです。
そうなってくると、今まで自分が固定的に考えていた世間というもの、要するに自分のためになるような人が無限、無数にいるかということが改めて分かるはずなんです。それはそれで大事にしましょうと。つまり、畑の範囲が広がって、今まで蓄積してきた種が育ち、植物というか作物というか、そういうものが新しく植え直す種になるだろうと、こういうことなんです。
―― それを自覚するかどうかというところですね。
童門 はい、そうです。またそういう見方を移動することに自分で自分が納得するかどうか。意固地になって、「いや、俺は絶対ここを動かねえ」なんていうんじゃいけないと。
―― それでは少し勝手が悪い感じですね。
童門 「If you like」でね、それであなたがよければいいけど、そうなると極端にいえば、あなたの将来はありませんよと。
●50歳からの学びを自分のものにするため、「孤独を覚悟せよ」
―― もう一つ、ドキッとするのが「孤独を覚悟せよ」というところですね。
童門 それは、どうしてもある程度高齢に近づいていくわけですから、今までやってきたお付き合い、そういういろんな世間とのやりとりを整理しておかなけれ...