●記憶力を鍛えるコツは「忘れっぱなしにしない」こと
―― また記憶力というのが、ある程度の年代に立つと非常に気になってくるものでございますけれども、記憶力の部分でも、いろいろお書きになっています。
例えば一つは「忘れっぱなしにしない。(「あれ、誰だったっけなあ」と思って)「途中で思い出したときでも、(それで済ますのではなく、)あとで資料を見直すなどして確認を忘れない」ということです。やはりそういうことを積み重ねるからこそ、記憶が衰えないということですね。
童門 はい。僕はものを書く他に講演を頼まれることがあるんですよね。そのときにやっぱり年のせいだと思いますけれども、固有名詞を忘れることがあります。地名、人名ね。そのときには、そのことを正直に吐露します。「もう92(歳)ですから。90(歳)なんかになりたくないですねえ。今、ここでつまずいたのは、例に出した人の名前を忘れちゃったんですよ。でも、これはこの講演が終わるまでに必ず思い出して、その作業を今、脳が一方でやっていますから、ちょっと今は見逃してください」という感じで。
ただ、そのままでも終わってしまう場合がある。そのときには謝ります。「お約束したことがついに思い出せませんでした。帰りの電車の中で思い出すか、飛行機の中で思い出すかしたら、主催者の方に連絡して黒板などに書いてもらうようにしますから、とんずらをお許しください」と言ってね。それを忘れっぱなしにしてしまうと、それが癖になって、どんどん、どんどん、しまいには「あんた誰?」になってしまうわけですよ。
―― 癖になってしまうんですか。
童門 癖になってしまう。忘れてもいいや、という感じに。世間にはそういう許容力があるから、もう忘れたことは忘れっぱなしにしてしまえと。そうすると自分の宝が一つ消えてしまうんですよ。せっかく培ったものがね。だから、一番冒頭で言った、自分を大事にするということにつながりますが、いわゆる自分が持っている記憶も一つの資源ですからね。もったいない。
―― 忘れっぱなしというのはもったいないということですね。確かにそこで覚えたら、もう1回ガチッと入ってくるというところですね。
童門 そうです。
●中江藤樹の言葉「心の鏡をきれいに保つ」に学ぶ
―― もう一つ。これはなかなか一般の人が思いつかないというか、先生が中江藤樹の言葉だということで書いておられましたけれども。「心の鏡がきれいに保たれていれば、そこに映る像は鮮明で、記憶にも長く深くとどまる」。記憶力の本で、心をきれいに整えよという意味のことはなかなか書いていないと思うんですけど、これはご実感としてはどういうことでしょうか。
童門 その出どころは、孔子の言った「恕(じょ)」です。如き・心と書きます。それはいつも他人の立場に立ってものを考えよと。だから「忖度」ですよ。だけど、いい意味の忖度なら、相手の立場に入れ替わって、悲しみや苦しみを時に自分のものとすることができるわけですよね。
だからこれは僕の好きな山本周五郎さんの小説で、主人公があるときこんなことを言うんですね。「俺はてめえの傷が痛いから、相手の傷の痛さも分かるんだ」と。これは孔子が言った「恕」のことじゃないかと思ってね。だから、そうなるには、中江藤樹の言葉のように、自分が持っている心の鏡がピカピカに光ってなかったらいけないよと。曇っていれば、目の前に苦しんでいる人がいても、その人の苦しみは心の鏡に映らないから、そのまま行き過ぎてしまったり、いい加減な対応で終わってしまう。それじゃあダメだと。
皆さんがこの塾(藤樹書院)に来る以上は、心の中の鏡をいつも布でピカピカに磨いておいでなさい。そうすれば、集まった同志の中でも、「そこでこの人は、ああいう悲しみがあるんだ、苦しみがあるんだ」ということが映るはずだ。映らないのは鏡を磨く努力を怠っている証拠ですよと。そういうことですね。
―― 前回の「勉強空間の工夫」の話のところで、形として、パジャマ姿ではなくという話もありましたけれども、ある意味、形を整え、心を整えるからこそ入ってくるものがあるというところですね。
童門 おっしゃる通り。
―― そのあたりも非常に大事ということですね。
童門 人から学ぶときには、やっぱりそれが大事だということでしょうね。
―― そうですね。例えば本を読むにしても、それはやっぱり本から学ぶところですし、私どものような動画メディアでも、ある意味、講師の方から学ぶということでいけば、その態度の大事さは感じております。
童門 そうですね。