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●曖昧だった室町幕府のストーリー
次に「一元化をはかり、明確に上に立つ」。要するに、力を分けずに、しかも徳川家康あるいは徳川将軍家当主がトップなのだという形をはっきり見せる。これは、幕府を開くというくらいであれば、(会社を創業するなどでもいいのですが)徹底してやらなくてはいけません。
弟が信頼できるとか、立てなくてはいけない人がいる、などと言って自分が不自然に身を引いたり、力を分ける素振りをしたりして美徳を示そうなどということはしないで、むしろはっきり「俺だ」ということが大事である。家康という人は、そばに学者を置いて、大変勉強家だったと思います。特に関ケ原の後、家康は周りに多くの学者を置いて、いつも勉強をしている。儒学などを本人がものすごく勉強しているわけです。そういうことを考えると、歴史に学ぶこともとても多い人だったと思います。
南北朝時代から室町幕府の初頭にかけて、足利尊氏は後醍醐天皇を立てようとしました。うまくいかないから、もう一人の天皇を立てて、天皇を2人にしてしまう。北朝を立てて、南朝に対抗する。そうやって天皇が2つに分かれて、片方の側に足利家がつき、室町幕府もつくかというと実際の室町幕府の初期の状況を見れば、尊氏と直義の兄弟争いも熾烈で、要するに足利家の中でも北朝と南朝に割れて争う。尊氏が北朝だったはずなのに、一度南朝に行ってしまうなど、もう滅茶苦茶なストーリーなのです。
誰が本当に偉くて、どこに権威を集めたいのかということがとても曖昧です。朝廷と将軍家(幕府)があり、しかも朝廷が2つある。原則、京都にあった北朝と、吉野の山奥に引っ込んでいるけれども、たまに戦の調子がいいときは都のほうに迫ってくる吉野朝(南朝)。それを行ったり来たりする中で足利尊氏は結局、室町幕府の初代将軍というけれども、どこに力が集まっているのかを演出できないまま終わってしまう。
その反省から、3代将軍義満が本来の初代将軍がやるべきことを初めて実現します。しかし、その後がもたない。これは、やはり室町幕府のつくられ方、ストーリー、歴史的な環境、朝廷の使い方、こういったものが全て曖昧で不十分であったからです。結局、室町幕府の足利氏が権威を持つといった体制は、うまくいかなかったわけですね。
●天皇の雅を模倣しようとした足利将軍家
ですから、室町幕府は名のみの幕府といった時期が長い。いろいろなことがありますが、足利(室町)幕府の時代はまともに統治されている時代のイメージで語れる時期があまりにも短い。この轍をいかにして踏まないか。
例えば、幕府の置き場所なども、朝廷のある京都に幕府があるといったことになると、権威と権力について、どういう従属関係、上下関係、あるいは対等の関係になるのか。朝廷から位を貰い、権力を委任される格好になるはずの征夷大将軍が――室町幕府は京の室町にあるから室町幕府になったというのが名の由来でありましょうけれども――朝廷のすぐそばにあるわけです。
そういうことを避けたいというのが源頼朝のデザインだったわけです。鎌倉という、自分たちの力の基盤になっている東国武士の勢力圏に幕府を置いた。もちろんこれでは西側の統治が緩くならざるを得ず、また西側の寺社勢力などを必ずしも武家の力で全部統率できるのかという点も含め、鎌倉幕府の時代はどれだけ鎌倉幕府が全国を統治していたのかについては歴史学者がいろいろと疑問とするところではあります。ですが、京の都から武家の都が離れていることで力を示したのです。
特に鎌倉幕府の場合、武家の勢力がまだこれからという時期です。鎌倉にあることは、かえってある種の限界を伴うことになるかもしれませんが、はっきり京都と鎌倉を空間的に分けて、別だということを示すことによって、武家の独自性を示すことができた。武家政権が別の力だということを示していく政治プロセスをつくることもできやすかったわけです。
けれども室町幕府では、足利氏は東国から出ていって京都に居座ろうとしたことによってある種、朝廷との曖昧ゾーンをつくった。そのうえ、特に足利義政などがそうですが、あっという間に足利将軍家が雅を求めて公家化、皇族化してしまう。
源実朝のように鎌倉で雅を求めると、まだ距離感があります。源実朝という人は藤原定家を歌の師匠にして、鎌倉にいながら一生懸命、都人風の歌を詠み、添削してもらって、鎌倉の中で京の雅を実現しようとして、公暁に殺されてしまいました。室町幕府の将軍の場合は、京都にいて、朝廷の雅やかな文化を模倣しようとするわけですから、武家の独自性をあっという間に失ってしまうわけです。そういうことも、統治がうまくいかないことに密接に関連している。


