●古くから日本で親しまれてきた仏教
家康と儒教の話に移りたいと思います。
例えば武家の学問としては、藩校や林家、湯島の聖堂が知られています。それまでの、例えば足利もお寺は建てました。もちろん江戸幕府(徳川家康)もお寺をつくって大事にする、仏教を大事にするということはあったわけです。江戸幕府(徳川将軍家)にとって大事なお寺は、芝の増上寺ですね。または上野に寛永寺をつくる。もちろん仏教は大事だという形はつくるわけです。
ですが、例えば室町幕府が一所懸命、京都にお寺を建てるとか、織田信長が延暦寺や本願寺と戦うなどを考えていただければ分かるように(「キリスト教を代わりに」とどこまで思っていたかはともかくとして)、日本の中世的な宗教の権威を徹底的に破壊し、その後どうするかというデザインを信長自身が十分に施す前に死んでしまった。豊臣秀吉の場合も「神仏を篤く」というところがあったと思います。
これは源氏もそうです。鎌倉幕府はやはり仏教ですよね。日蓮が鎌倉幕府を丸ごと日蓮宗に帰依させようと政治的にいろいろと行い、失敗して流されたりするわけですが、やはりどちらかというと禅宗です。鎌倉の由緒正しいお寺を思い出していただければ、禅寺が多いわけです。禅で瞑想して悟りを得るという方向、武家の血みどろの抗争の中での悩みは禅の修行で祓うといった方向で、皆が禅宗に行くわけです。
その前の平安時代の公家、あるいは皇族や天皇は、見てもらえば分かるように、上皇が法皇になったりします。仏門に帰依してお坊さんになるから法皇になるのです。あるいは、さらに遡っても、聖徳太子は仏教ですね。聖武天皇は、大仏や仏教による鎮護国家を目指す。『論語』は日本の古代のうちに入っていたわけですが、奈良時代、平安時代の朝廷も、鎌倉時代の鎌倉幕府も、南北朝時代も、室町時代も、織田も、豊臣も、儒教を重視するということはありませんでした。
●徳川幕府の時代、武家の学問は仏教ではなく儒教
日本の中で儒教は、漢字と一緒に『論語』も入ってきたくらい古いし、儒教を勉強する人もいたわけですが、儒教が政治と結びついてきたことはありません。中国はそうだったわけです。中国の歴代の王朝は儒教でできていた。儒教(四書五経)をよく勉強し、皆がテストを受けて登用され、国家官僚になるのが中国の科挙のシステムです。
日本の場合、四書五経をよく勉強すると出世するといったシステムを、奈良時代につくりかけたけれど、日本に馴染まないということでやめています。
だから儒教は、常にサブでした。道教もそうです。儒教と道教は、日本の文化に大きな影響を古代から与えてきてはいるけれど、仏教や神道に比べるとメインに出てくることはなかった。ところが、家康はそれをメインに出してきたわけです。
つまり徳川幕府の時代、武家の学問は、仏教ではなく儒教なのです。武士の学問は儒教であって、だから藩校がたくさんできる。藩の学問、侍の学問は『論語』を読むことである。ただ、『孟子』は読まないことが一つの伝統になっています。『孟子』には革命思想が入っており、「徳川幕府がひどかったら倒していい」という思想を身につけられると困るので、『孟子』は読まないようにしようということになっていました。もちろん読んでいる人はいたのですが、正式に『孟子』を一所懸命、藩で侍に勉強させると下剋上になって危ないので読ませないように、ということはあった。ですが、基本的には儒教になります。
(一方)仏教とは何かというと、密教系、鎮護国家思想だと、あの世とこの世がダブっているという考え方です。だからこそ、天台宗が平安の朝廷の後ろ盾になって、場所も比叡山に置かれた。その比叡山を真似して、京都を全部奪うという江戸幕府のデザインがよく示されている例が、上野の寛永寺を東叡山に置いたということです。
とにかく天台宗や真言宗は、現実にもとても価値を置くのです。現実をきちんと治め、あの世も治める。現実とあの世――「あの世」という言い方はあまり良くないのですが、分かりやすくいうとそうなります――、この世ならざる世界とこの世が重なっているということです。だから、密教などでは天台宗や真言宗で山にお寺があり、山で修行して、行者が千日回峰行を今も行っています。あれをなぜ行うかというと、仏さまが現実に及ぼしている“いい力”によって、常人だと見えないものが見えるようになるからです。それを行うのが行者ですね。
行者が法力を身につけるということはどういうことか。世の中には間違ったことや病気もたくさんあって、政治も滅茶苦茶で、戦争もあって、われわれはひどい目に遭わなくてはいけなくて、この世はどうしようもないから阿弥陀仏に「南無阿...