●「天下泰平」実現のため関ケ原での勝利より重要だった国家統治デザイン
今回は最近、徳川家康のことでいろいろと気になることが多いので、家康というテーマを選びました。
家康のやり方について、あまりこれを露骨にいうと、興を削ぐといいますか、それほど歴史をネタにして現代のことを語りたいのか、あるいは妙なバイアスが掛かり過ぎているのではないかと思われてしまってよくないので、本当は言わないほうがいいのですが、ここであえて言いましょう。
最近の日本の天皇と政府、天皇と総理大臣の有り様を見ていると家康の時代と被せて考える(対比させる)といろいろと見えやすいこともあるなという思いがあります。そういったことで家康というテーマを選ばせていただいたわけですが、家康について通常出てくる話とはやや違った内容で、少しでも皆さまのご記憶に残るようになればいいかなと思い、プリント(資料)も用意させていただきました。
最初に、家康、そしてその後の徳川幕府による天下泰平のデザインはどういうものであったかという問題提示をしています。これはその通りで、徳川幕府が一応、日本の歴史の中で、特に武家政治としては、源氏も北条氏も足利氏も豊臣氏も実現できなかったような長さを持ちました。
また、内乱ということでは、鎌倉幕府、室町(足利)幕府の歴史を見れば、途中でいろいろなことがありました。特に室町幕府の時代は、治まっていない時期が長い。応仁の乱から後は、幕府が京都にあったとはいえ、将軍はいても国家を統治している形態にはあまりなっていない。室町時代、足利将軍の半分ほどはそうであったと言ってもいいくらいでした。それ以前も南北朝時代がありましたので、そうすると室町幕府の時代は、足利義満の前後くらいしか国内が乱れず統治していた時期がないともいえるわけです。
そう考えると、徳川(江戸)幕府は、初代・家康から15代・慶喜まで、幕末に混乱はあるけれども、途中は大規模な内乱といえるものは島原・天草の乱くらいしかない。(江戸時代では)忠臣蔵の話などは有名ですが、赤穂浪士の話があれほど有名なのは、他に匹敵する話題がないからです。赤穂の浅野家がお取り潰しになり、吉良上野介のもとに仇討で40~50人の侍たちが討ち入りをしたという話が、今日に至るまで徳川幕府の時代の大きなネタになっています。他に、荒木又右衛門の敵討ちなどいろいろあるといえばありますが、要するに何十人も出てきて戦ったりすること自体が珍しいわけです。
もちろん、歴史の闇の中で埋もれてしまった大きい事件はあるでしょう。また、そういった闘争はなくても、飢饉であったり、一揆などはあったりします。侍同士、大名同士が戦ったりはしなくても、いろいろな形で混乱はもちろんあった。また、富士山が噴火するなど、江戸時代はいろいろな災害もありました。
ですから、「天下泰平」といっても、それは武家同士が戦わなかった、将軍家に対して大規模な反乱がなかったなど、いろいろと限定しなければいけません。「他にこんなことがありました」といえば、徳川時代にももちろん大変なことはたくさんあったわけです。
それでも一応、いわゆる政治的な闘争が少なく、反乱・戦争も(ほとんど)なかった。そういう意味で「天下泰平」という統治が行われたという点では、なかなか珍しい時代です。そして将軍家の権威も、かなり保たれていた時代だったと考えていいと思います。
なぜそういった時代ができたのかといえば、関ケ原の合戦で徳川方が豊臣の家臣である石田三成方の勢力を打ち破って勝ったからだ、というような単純なことではなく、その後のデザインが優れていたからです。また、それまでの家康の振る舞い方が良かった。関ケ原の後、家康は大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした後にすぐ亡くなるわけですが、そこまでの準備(徳川の天下を長く続けるための準備)が、良かった。
そして、その志を継ぐ形で、家康の周辺には官僚層、あるいは天海や金地院崇伝といった家康のブレーンのような人たちがいました。林羅山、藤原惺窩などの学者、宗教家といったブレーンが家康の意図をよく汲んで機能した結果、長く続いていくことになった。単純に強かったから長く続くというものではありません。関ケ原で勝ち、大坂冬の陣・夏の陣で勝ったから、その後がずっとうまくいくということはないのです。
ですから、どういう形で、どんなデザインで、どんな思いで、どんなやり方をしていたかということを、これからお話ししていきたいと思います。
●源平合戦で「現場」にいなかった源頼朝
最初に、あまりきれいな言葉ではありませんが、(スライドに)「率先し陣頭指揮する」とあります。これは、家康の人生を考えたときに、と...