●三つの点で従来の縄文文化への認識は変化してきた
そのように考えると、1980年代前後までの縄文時代のイメージは、先ほど説明した高校の教科書の記述のような形で、基本的には語られてきました。対して、今申し上げたように、現在では大きく異なる点が三つあります。
1点目は、炭素14年代測定法の進歩です。最近では、加速器を用いることで、非常に微量の炭素からの年代測定が可能になりました。前はベータ線法という方式を用いていましたが、たとえば貝塚であれば貝を何十グラムも使う必要があります。人骨であれば、何十グラムも使えば、腕が1本なくなってしまいます。それほど多くの炭素、つまりサンプルが必要でした。
しかし、最近では加速器を利用するAMSという新たな炭素14年代測定法が、一般化してきています。この手法では、数ミリグラムという非常に小さなサンプル量で年代測定が可能です。これを用いて、各地から出土した土器、特に古そうな土器を調べると、先ほど申し上げたように、およそ1万6000年前から土器が出現すると示されました。
それでは、縄文時代と弥生時代の区分はどうなったのでしょうか。現在では、灌漑水田稲作が開始されるのは、北部九州ではおよそ3000年前と考えられています。これも、先ほどの高校教科書の時代区分からすると、700年から1000年程度さかのぼっているのです。
そうすると、縄文時代の時間幅は、縄文土器の出現とともに開始し、水田稲作の開始とともに弥生時代が開始すると考えると、灌漑水田稲作の開始がおよそ3000年前ですから、1万6500年前から3000年前までとなります。1万3000年間が縄文時代の時間幅です。最近では、このように考えられるようになってきました。この時間幅は、これまでの想定よりも、かなり長いのです。
2点目は、高度に発達した植物管理技術、特にクリ、漆、豆類などの栽培や管理をどう考えるかという点です。これまでの認識では、狩猟に植物採集、そして漁撈が、縄文時代の生業の中心でした。最近では、それに加えて栽培、植物管理、場合によっては農耕などもその中に加わるのではないかと議論されるようになってきました。
最後に3点目として、階層社会の存在可能性が挙げられます。これまでは、縄文時代には平等な社会であったといわれてきました。しかし、今からおよそ4300年から3000年前の縄文時代後期と呼ばれる時期に、東北地方の北部、あるいは北海道の南部において、身分の上下や階層化した社会が存在した可能性が、指摘されるようになってきました。
こうした指摘を受けて、これまで縄文時代の社会的な枠組をどう考えればいいのかが、非常に重要になります。さらに、縄文時代と弥生時代の境目について考える場合、先ほど、水田稲作の開始は、北部九州においておよそ3000年前といいました。弥生時代の開始時期を、北部九州での水田稲作の開始を基準とすると、およそ3000年前から弥生時代が開始ということになります。
ところが、3000年前には、東北地方、青森県、岩手県、秋田県では、実はまだ亀ヶ岡文化(編注:青森県の亀ヶ岡遺跡を中心とする縄文晩期の文化のこと)の最盛期です。これらの地方に水田稲作が導入されるのは、600年ほど遅れておよそ2400年前になります。
そうすると、単純に水田稲作の開始、あるいは導入という基準だけで、弥生時代と縄文時代を明快に区分できるかという点に関しては、実はまだ克服する必要がある、考える必要がある問題があります。これらの点が、現代における新しい縄文時代像の論点として、取り上げることができるでしょう。
●土器の出現年代と気候の年代的変化
それでは、土器についての話を戻しましょう。縄文時代の開始は、約1万6000年前、測定値だけを考えると約1万6500年前です。先ほども少し指摘しましたが、約1万6500年前は氷期に当たります。現代から見て最後の氷期ということで、「最終氷期」と呼ばれます。つまり、まだいわゆる氷河期という氷期の時代で、気候も寒かったのです。生えている植物も、基本的には寒い場所に生える針葉樹林が中心です。
現在の知識では、最終氷期が終わって暖かくなるのはおよそ1万5000年前です。約1万5000年前から、気候は急激に暖かくなってきます。
ところが、およそ1万3500年前に、一度いわゆる「寒の戻り」がありました。これは、「ヤンガードリアス」、あるいは「新ドリアス期」と呼ばれます。この時期を越えて、およそ1万1500年前になると、徐々にですがまた気候が暖かくなり、海水面も徐々に上がっていき、時には40メートルほど上がるという状況になります。
先ほど説明したように、土器の出現はおよそ1万6500年前です。つまり、まだ寒い時期に...