●水田稲作が始まってから古墳が出現するまでの弥生時代という1200年
皆さん、こんにちは。千葉県佐倉市にある国立民俗歴史博物館で考古学を研究している、藤尾慎一郎と申します。今日は日本列島で水田稲作が始まってから、前方後円墳が出現する弥生時代までの歴史について、6つのテーマに分けて講義をいたします。
まず、その6つのテーマに関して簡単に説明します。まず、九州北部で水田稲作が始まった頃の100年間についてお話しします。次に、100年ののちに社会は大きく変わりますが、どのように社会が変化したかについて述べます。3つ目のテーマは、水田稲作が始まった600年後に金属器が登場します。その登場とともに作られ始めた王の墓について議論します。4つ目は、弥生人が印鑑と文字を使って中国の王朝と外交関係を結んだ、現在からおよそ2000年前の歴史についてお話しします。5つ目は、そうした外交を行っていた北部九州にあった国の内実について議論します。最後に、卑弥呼が共立され、古墳が出現し、古墳時代が始まるまでの歴史についてお話しします。
今日の弥生研究の特徴は、ここ15年ほどの間に、約1200年間続いた弥生時代に西暦を用いることができるようになったことです。それまでは、弥生時代の、前期・中期・後期という表現を用いていましたが、一般の方からすると具体的にいつ頃のことなのか、イメージがわきづらいと思います。それが、紀元前8世紀、あるいは紀元前5世紀などのように西暦で表現できるようになりました。これがここ15年間の弥生研究の大きな特徴となります。今日はそれに基づいて、講義を行います。
●水田稲作の開始年代が500年さかのぼった、その訳とは
そもそも、新しい弥生時代の年代感が明らかになった、すなわち水田稲作の開始年代が500年ほどさかのぼったという発見は、2003年5月に文部科学省で行われたわれわれの記者発表が発端でした。スライドは、その記者会見の翌日に在京全国7紙の第一面に載った記事の写真です。
ここまで反響があるとはわれわれも思っていませんでしたが、本当に大きな反響を呼んだというわけです。
なぜ水田稲作の開始年代が500年もさかのぼったのでしょうか。当時弥生人が使っていた「甕(かめ)」と呼ばれる調理用の土器の外側に、火で調理をした際に煤(すす)がついていました。この...