●「倭」の範囲は環壕集落の分布と一致している?
九州北部の王たちが交流していた当時の前漢王朝は、弥生人のことをどう見ていたのでしょうか。「楽浪海中倭人あり」という記述がありますが、当時彼らは、日本の人々を「倭」と呼んでいました。中国の人々が認識していた「倭」の範囲は、どこまででしょうか。九州はもちろん倭の範囲です。それでは、東端はどこなのかという点に関して、環壕集落の分布に着目して考えてみようと思います。
この図は、朝鮮半島と日本列島にある紀元前11世紀から古墳時代が始まる直前までの、環壕集落の分布を示したものです。朝鮮半島南部から九州、近畿、東海、関東まで分布しているのが見て取れるかと思います。一方で、東北地方には一つもありません。
環壕集落の分布を時期別に見てみましょう。3枚の図がありますが、最初は弥生時代の前期です。この時期には、環壕集落はだいたい名古屋近辺まで広がっています。その後、紀元前1世紀頃には、関東地方の利根川近辺まで広がっています。そして、弥生時代の後期になると、利根川の北には広がらず、日本海側の新潟県村上市まで広がります。南の方は鹿児島まで存在していました。
つまり、環壕集落は千葉、埼玉よりも北には分布していません。つまり、栃木や茨城以北には、1つも環壕集落は見つかっていません。シリーズ講義のなかで、環壕集落は農耕社会の成立を示す考古学的証拠の一つだというお話をしました。そうした環壕集落を持たない地域、すなわち栃木、茨城、そして東北ですが、そこに一つ、線が引けるのではないか。そして、それは倭の範囲と一致するのではないかと考えることもできます。
●環壕集落文化の端にある南関東と東北の遺跡たち
南関東でも水田稲作と開始とほぼ同時期の紀元前3世紀中頃に、環壕集落が出現します。そのなかで最も有名なものの一つに、小田原市にある中里遺跡が挙げられます。左側は山の方から遺跡を見て、太平洋の方を向いた写真です。真ん中に環壕集落が見えます。その上の方に海岸線が見えます。
この環壕集落は、海岸線から約6キロメートル内側に入った場所にあり、現在はすぐ脇を新幹線が通っています。そのため、新幹線に乗って東京方面に向かう際には、すぐ左手に見ることができます(もっとも、現在ではショッピングセンターが立っていますが)。ここに、紀元前3世紀頃に突然、環壕集落が出現します。
先ほど説明したのと同様に、ここでも縄文人が住んでいなかった場所に突然、環壕集落が現れたということです100軒ほどの住居集があり、西日本系の方形周溝墓が見つかっています。それまでの形の墓は、同時に姿を消しています。先ほど、青森の砂沢遺跡について触れた際に、縄文人のむらのすぐそばに水田を造るといいました。それとは異なり、関東地方も西日本と同様に、それまで縄文人がいなかった平野の真ん中に突然、環壕集落が現れるのです。
さらに面白いことに、この遺跡からは兵庫県などの瀬戸内東部で出土する土器が数パーセントの割合で見つかります。このことから、西からやってきた人々が、この場所に環壕集落を造ったのではないかという説もあります。このような瀬戸内東部系の土器は、関東地方南部で比較的よく見られる土器です。弥生時代の中期後半になると、西から東への稲作民の移動が行われていた可能性もあるのです。
それでは次に、最北端の環壕集落について説明します。紀元後3世紀の、新潟県村上市にある山元遺跡です。この遺跡は、青銅器が出土した遺跡の北限としても有名です。西日本系と北日本系の水田稲作文化の接点、境界部といえるところです。文化と文化のちょうど境目に環壕集落が造られているということで、倭国の範囲を示すものと考えることができます。
このように、日本海側は新潟県というかなり北の方まで環壕集落が造られていますが、太平洋側の方は千葉県の佐倉市あたりまでしか環壕集落は発見されておらず、利根川を越えません。弥生時代当時には、利根川はまだ形成されていません。霞ヶ浦が大きな堰湖となっていて、まだ川はありませんでしたが、その南北で社会が大きく異なっていたと考えられるのです。
●日本で唯一、水田稲作をやめてしまった垂柳遺跡の謎
次に、東北北部の水田稲作文化について見てみましょう。
先ほど弘前市の砂沢遺跡が紀元前4世紀に突然消滅するというお話をしましたが、紀元前3世紀、青森県田舎館村に垂柳遺跡という大きな水田遺跡が出てきます。左側の航空写真を見ると、小区...