●縄文後晩期農耕説でコメとともに作られていた可能性の高いのはアワとキビ
縄文後晩期農耕説において、コメと並んで最も作られていた可能性が高いとされたのは、アワやキビでした。日本で最も古いアワやキビはいつ頃見つかったのでしょうか。左側の写真がアワ、右側がキビです。アワは英語で「foxtail millet」と呼ばれ、狐の尻尾のような形をしています。これらは両方とも紀元前10世紀頃の中国地方に存在していたということです。土器の表面のスタンプ痕からその存在が実証されました。
コメと、アワとキビは何が異なるか。現在の若者は、きびだんごで食べたことがあるくらいで、アワやキビ自体、食べたことはほとんどないと思います。多くの場合、インコの餌などといった認識がされているのではないでしょうか。
生物学では、光合成の仕方が異なるために炭素の安定同位体比の比率が異なるといわれています。ですので、土器の内面のおこげの中の炭素分子を調べると、どちらの穀物か判別することができるといわれています。アワやキビなどのC4植物であれば確実に分かります。
ただ、コメはどんぐりと同じ性質を持っているので、C3植物がコメだったのかどんぐりだったのか、これだけでは判別することができません。ただ、C4植物ならばおこげを調べれば確実に分かるといわれています。福岡平野の場合、われわれが調査した中で最も古いC4植物のおこげは紀元前600年頃のものです。つまり、弥生時代初期のものはまだ見つかっていません。
●水田稲作の歴史は縄文人の生活圏とは異なる場所で始まった
次に、縄文晩期から、弥生時代のはじめにかけての遺跡の状況についてお話しします。
日本で最も早く水田稲作が始まったとされる福岡県福岡市に位置する福岡平野を取り上げます。
この図は水田稲作が始まる前の福岡平野の地図です。九州のことをあまりご存じない方にはよく分からないかと思いますが、福岡市にお住まいの方は、この図を見れば現在のどの辺りかすぐに分かるでしょう。ちょうど地図の中心が、現在の博多駅周辺です。これを見ていただくと、博多駅周辺は真っ白で遺跡がほぼないということが分かります。つまり、縄文時代の晩期終末には、現在の博多駅周辺にはほとんど人が住んでいなかったということです。平野の真ん中ではなく、そこから少し河川をさかのぼった中流域や上流域に住んでいたことが、遺跡の分布から分かります。
縄文人は穀物こそ作っていなかったのですが、豆を育てていたのではないかと、現在では考えられています。具体的には、ダイズとアズキです。もちろん、現在のダイズとアズキではなく、縄文時代のものは野生のダイズとアズキで野生種と現生種との中間的な大きさのものです。ただ、穀物の栽培は行っていなかったというのは、確実なことです。
紀元前10世紀にいよいよ水田稲作が始まりますが、左側は先ほど示した縄文最晩期の遺跡の分布です。点線で丸く囲んでいる部分は、先ほど空白であったと指摘した場所です。紀元前10世紀後半には、ここに水田稲作を行う人が登場します。それを示したのが、右側の図です。雀居(ささい)や板付といった地名がありますが、紀元前10世紀にここに突然水田稲作を行う人々が登場したのです。それまで縄文人がほとんど用いていなかった場所に水田稲作を行う人が現れました。これが水田稲作の起源です。
今から60年ほど前の学説では、朝鮮半島で稲作を行っていた人々が海を渡って日本に来て、福岡平野に住んでいた縄文人たちを追いやってむらを作り、水田稲作を始めたという、比較的物騒な水田稲作の開始状況が描かれていました。しかし、ここにある資料にあるように、それまでほとんど利用されてこなかった地域に、新たに人が入植してきて水田稲作を行ったということが分かってきました。
日本における戦いの歴史を考えてみても、水田稲作の開始から100年ほど経過した後にならなければ戦いの証拠が見つからないので、水田稲作を始めた人々と縄文人が戦争をして、水田稲作が始まったとは考えにくいのです。
●福岡県で見つかった最古の水田遺跡
これは、福岡県福岡市の早良(さわら)平野にある橋本一丁田遺跡で見つかった水田関連遺構です。右側が溝となっていて、水田に水を入れる水路です。左側が水の量を調節する堰(せき)の跡です。先ほど説明したように、多くの木材が見つかっています。この木材のセルロース中の酸素同位体を調査すると、この木材がいつ伐採されたのか、ひいてはこの水田がいつ作...