●紀元前3世紀頃から青銅器を自作するようになった弥生人
弥生人は金属器を受け取るばかりではなく、紀元前3世紀には自ら作るようになります。それは、朝鮮半島南部にはない弥生独自の青銅器が出てくるようになることから分かります。具体的には、紀元前3世紀を過ぎると、九州北部では大型化しつつある銅剣・銅矛・銅戈といった青銅製の武器が見つかるようになり、近畿では銅鐸も徐々に大きくなってきます。
また、実際に遺跡からも鋳型が出てくるようになります。ここでは、熊本市の八ノ坪遺跡を紹介します。鉄の場合と異なり、製鉄炉があるわけではなく、明らかに炉と分かるものが見つかることはありません。しかし、地面が焼けた状態で見つかるようになるのです。
この八ノ坪遺跡では、多くの鋳型が見つかっています。銅戈、銅矛、銅鐸といった武器形青銅器の鋳型や、鋳造した際に鋳型からあふれ出してしまった銅滓(どうさい)、空気を送るための送風管などが見つかっています。この送風管はL字型で、近畿地方にある有名な鋳造遺跡である奈良県唐古・鍵遺跡や大阪府東奈良遺跡で見つかったものと同じ形をしています。同じ遺跡から出土した甕(かめ)形土器に付着していたススを炭素14年代測定法で調べたところ、紀元前3世紀頃のものだと判明しています。
●日本の青銅器の国産化に朝鮮半島出身者が大きな影響を与えている
問題は、こうした青銅器を誰が作ったのかということです。このような鋳型が出てくる遺跡からは、この図のような土器が出てきます。この土器は、当時の朝鮮半島南部で使われていた土器と、同じ形をしています。加えて、壺、甕、高坏(たかつき)、器台という当時の土器がセットで出土するのです。
これは、朝鮮半島南部から青銅器を作る工人が渡来してきた証拠ではないか、と考えられています。こうした遺跡は、佐賀平野、熊本平野、福岡平野、そして福岡県と佐賀県の間にある福岡県小郡市などで発見されています。このように、日本の青銅器の国産化には、朝鮮半島南部の出身者が大きな影響を与えていることが分かります。
もともと日本に水田稲作を伝えたのも朝鮮半島南部の青銅器文化の人びとであると先ほど説明しましたが、実は、水田稲作が始まったばかりので遺跡で朝鮮半島南部系の土器がセットで見つかることはありません。むしろ、青銅器を作り始めるようになった紀元前4世紀以降の方が、朝鮮半島南部の人びとが存在していたという証拠が色濃く残っているのです。
明らかに水田稲作は朝鮮半島南部から伝わっているにもかかわらず、その開始期には朝鮮半島南部の人びとの存在を示す証拠が乏しく、青銅器を作り始める時期になって初めてそうした証拠が出てくる、というのは不思議なことです。
●弥生人は最初、小さくなるまで鉄を大事に使い続けていた
鉄器の話に移りましょう。鉄器は炭素量の違いによって、鋳造鉄と鍛造鉄に分類されます。鋳造鉄は、鉄製のやかんや仏像などのように、鋳型に鉄を流し込んで作るものです。これは、炭素量が2パーセント以上と高炭素になります。一方、斧や日本刀のように武器や利器として用いられるものは、炭素量が低い低炭素の鍛造鉄です。
最初に日本列島に登場するのは炭素量の高い鋳造品です。この図に示しているのはすべて鋳造品です。しかもこれらの鋳造品は、中国北京の東郊にあった燕(えん)という国で作られたものです。これがまず紀元前4世紀頃に、日本列島に入ってきます。
この鋳造された鉄の斧は、割れやすいという特徴を持っています。釘などで分かるように、低炭素の軟らかい鉄は曲がることはあっても、折れたり割れたりすることはまずありません。しかし、鋳造品は硬いために、パキンと折れたり割れたりします。
そうすると、当時の弥生人は割れた破片を捨てずに、刃面を砥石で研いで、刃を付け、木製容器などの製造といった細かい作業を行うということに、鉄の工具を使うようになります。したがって、日本列島で鉄製品が見つかるようになるとはいっても、最初から鍬(くわ)や斧などの利器が出てくるのではなく、彫刻刀や小刀などのように木製品の細部加工に用いられる小さな鉄器が最初に出てきます。つまり、鉄器の出現が必ずしも直接生産力の拡大につながるというわけではなかった、ということが分かります。
このように割れた鉄斧の破片を、砥石で研いで再加工したものは、西日本全体から出土しています。
画像の右側の地図にある地点が鋳造鉄斧の破片が見つかった遺跡です。弥...