●農耕社会の成立と高い防御能力を持つ環壕集落
それでは、第2章「農耕社会の成立」に関する講義に入ります。先ほど、朝鮮半島南部では紀元前10世紀頃に農耕社会が成立したとお話ししましたが、九州北部でも水田稲作が始まってからしばらくたった紀元前9世紀頃に農耕社会が成立します。
農耕社会が成立した考古学的な証拠としては、朝鮮半島南部の事例でも説明した通り、環壕集落が成立すること、副葬品を持つ有力者の墓が見つかること、副葬品を持つ子どもの墓が見つかることなどが挙げられます。このそれぞれの証拠が農耕社会の成立や有力者の登場、および格差の顕在化を示しています。
具体的な説明に移ります。先ほど板付遺跡に関してお話しした際に説明しましたが、こちらは日本最古の環壕集落の写真です。右側は上から見た写真ですが、二条の壕が円弧状に見えます。直径が150メートルほどの円形になります。すなわち、紀元前9世紀頃に直径150メートルほどの二条の壕をめぐらした環壕集落が成立するということです。
その壕の断面を見たものが、左側の写真です。壕の底に男性が立っていますが、壕の深さが見て取れると思います。3000年の間に当時の地表面は削られているので、実際にはもっと深かったということです。しかも断面がV字になっているので、壕の一番深い部分は、足を揃えて立つことはできません。
ですので、ここに落ちてはまってしまうと、なかなか抜け出すことができないわけです。特に、九州地方の土は「赤土」と呼ばれて、雨が降るとツルツルになり、まず壕から上がることは不可能です。この意味で、この壕は防御機能も兼ね備えていたということができます。
●副葬品の存在から分かる格差の成立
次に、有力者の墓の一つが、福岡県の雑餉隈(ざっしょのくま)遺跡で見つかりました。この写真はここで見つかった複数の木棺墓です。数千年経過しているので木棺自体は腐ってなくなっており、骨もなく、副葬品だけが見つかります。左側の写真は副葬されている状況で、石剣を確認することができます。
その剣が右側の写真です。この墓では小さな壺と、石の剣、そして石の矢じりが副葬されていました。このような磨製石剣と磨製石鏃の組み合わせは、先ほど見た朝鮮半島南部と同じ風習です。つまり、朝鮮半島南部と九州北部の農耕社会の有力者は、同じ副葬品を同じように組み合わせて持っていたことが分かります。
ただし、朝鮮半島で最も位が高い人は、青銅製の銅剣を持っています。しかし、現在のところ、九州北部に青銅製の銅剣を副葬品として持っている墓は見つかっていません。したがって、朝鮮半島の最もクラスが高い人は、日本列島には来ていないのではないか、逆にいうと一番上のクラスではない人が来ているのではないかということが、この副葬品の組み合わせから分かります。
●水田稲作は戦いの発生と結びついている?
次の写真は、戦いが行われていたことを示す考古学的証拠として考えられる写真です。福岡県糸島市で見つかった新町遺跡に葬られている人骨ですが、この男性は左の大腿骨に長さ16センチメートルの矢じりが突き刺さったことによって亡くなっています。上にレントゲン写真の模式図がありますが、この矢じりが突き刺さったことで亡くなられて葬られた人であるわけです。この長さ16センチメートルの矢じりは朝鮮半島に特有なもので、縄文の系統をひく矢じりではありません。ですので、単純に考えると、この男性は朝鮮半島系の人々と戦っている最中に矢を射込まれて亡くなったとも考えられます。
しかし、おそらく真相はそれほど簡単なものではありません。どのような相手と戦って殺されることとなったのかは良く分かりませんが、少なくとも水田稲作が始まって100年ほど経つと戦いが始まっている、ということがここから分かります。100年というと約3世代ほどですので、祖父が水田を作って孫の世代にようやく戦いが始まるという感じです。
この戦いの原因は、おそらく水と土地です。水田を造るには水が重要で、人口が増えるにしたがって水田を拡大していく必要があるので、水と土地の確保が最も重要です。ある程度人口が増えてくると、水や土地などの利権をめぐって他人との衝突が起こります。そこで、話し合いによって解決できなかった場合には、戦いによって解決を図るという流れで戦いが始まったと考えられます。
これは弥生人が考え出したことではなく、おそらく朝鮮半島でこうした仕組みが形成されていたのだと思われます。九州北部で水田稲作が始まって100年後に、社会の仕組みがそうしたレベルに達したことで、戦いによる政治的...