10MTVオピニオン|有識者による1話10分のオンライン講義
ログイン 会員登録
10MTVオピニオンは、有識者の生の声を10分間で伝える新しい教養動画メディアです。
すでにご登録済みの方は
このエントリーをはてなブックマークに追加

弥生人と朝鮮半島をつなぐ壱岐の「原の辻遺跡」

弥生時代の歴史:第4章~外交の始まり~前編

藤尾慎一郎
国立歴史民俗博物館 研究部 教授/総合研究大学院大学 日本歴史研究専攻 教授
情報・テキスト
弥生人は次第に日本の外に出て、朝鮮半島や中国の人々と交流を持つようになる。壱岐の「原の辻遺跡」は、そうした外交のための前進基地と考えられており、当時の活発な経済活動や文化交流の跡が伺える。こうした活動を指導していた弥生人の王は、九州北部で中国からもらった鏡などを副葬品として用い、自らの地位の高さを示していたのである。(全12話中第9話)
時間:12:48
収録日:2019/06/04
追加日:2019/10/28
ジャンル:
≪全文≫

●弥生人と朝鮮半島をつないだ「原の辻遺跡」


 これまで、弥生人と朝鮮半島の関係についてお話ししてきましたが、次第に弥生人は中国人と交流を持つようになります。これを「外交の始まり」と呼ぶならば、おそらく次のような形で始まったと考えられます。

 まずは、糸島地域の人々が朝鮮半島南部に渡るための足がかりとした前進基地である、壱岐の「原の辻遺跡(はるのつじいせき)」についてお話しします。

 この写真は、山の上から見た原の辻遺跡の遠景です。川の向こうに見えるのが原の辻遺跡です。川は左側に下って海に至ります。

 原の辻遺跡は紀元前6世紀頃の遺跡で、突然出現しました。その後、紀元前3世紀には環壕集落が形成されました。

 この原の辻遺跡がある丘陵上は大変風が強く、現在でも地元の人々はむらを造らない場所として有名です。縄文時代にはむらはないのですが、弥生時代の紀元前6世紀頃に突然ここにむらが出現したのです。つまり、むらの外からやってきた人々によって、むらが造られたのではないかと考えられます。これが、糸島地域の弥生人の前進基地ではないかといわれている所以です。

 先ほど見えた川を上って、この原の辻遺跡を訪れていたと考えられます。海からは直接遺跡を見ることはできません。つまり、外から見られることはなく、防御的な面からは非常に優れています。川を上ってきた船は、この丘陵の北西端にある船着場に着きます。そこで荷下ろしをして、さまざまな文物を運び出し、そして運んでいくわけです。

 左側の図が丘陵全体のもので、真ん中上の部分に少し突き出した部分に紀元前3世紀に環壕が造らました。その環壕にくっつくようにグレーの細い帯がいくつか見えますが、これは運河で、ここを小舟で渡ってきます。


●原の辻遺跡の考古学的試料が示す当時の経済活動や王の身分


 この原の辻遺跡からは、非常に珍しいものが見つかりました。これは分銅のように見えますが、「権(けん)」と呼ばれているもので、竿秤の重りです。今の若い人は知らないかもしれませんが、われわれの世代だと、新聞回収にきたおじさんがこの竿秤で新聞の重さを測ってちり紙と交換してくれていたことを思い出します。その竿秤用の重りではないかと考えられており、成分を調査した結果、中国の後漢で作られたものではないかと考えられています。重さは約150グラムあります。

 実は弥生時代には、もう一つ秤に用いる重りが発見されており、それが分銅です。すべて石で作られています。重さの異なる10種類程度の石があり、組み合わせによって重さを測ることができるのです。弥生時代には、権と分銅の石の2つが重りとして秤に用いられていたことが分かります。それでは、壱岐では何を測っていたのでしょうか。よく分かっていません。

 原の辻遺跡のもう一つの特徴は、中国の当時の銭が多く見つかっているという点です。この原の辻遺跡では15枚の銭が見つかっています。この原の辻遺跡で唯一、中国や朝鮮半島の人々との間に貨幣経済が存在していたのではないかという人もいます。

 中世でもそうですが、青銅の中国銭は、まとめて溶かせば青銅器を作る際の素材にもなります。さまざまな使い道があったのかとは思いますが、もしかしたら原の辻遺跡では、そのような経済的行為の手段として使われていた可能性もあるかもしれません。このように、日本当時の弥生社会のなかでは、国境近くに存在したこの遺跡では、経済活動が活発に行われていたと考えられます。

 この原の辻遺跡を統括していた有力者は、九州北部の階級社会のなかでは、それほど地位が高くなかったと考えられています。当時の九州北部の有力者は普通、土器で作った1メートルほどの甕棺のなかに葬られます。この原の辻遺跡では、そうした甕棺があまり見つかっていません。箱式石棺や「土壙墓(どこうぼ)」と呼ばれているものがメインです。

 しかも、後に詳しく述べるように、当時の九州北部の王たちの身分は、前漢で作られた鏡を何枚持っているかでランク付けされていました。この原の辻遺跡の最大の有力者は、この前漢の鏡を一枚も持っていません。甕棺の数も少ないですし、前漢の鏡も少ないので、身分としては下のランクにあった人々が統括していたのが、この最前線基地である原の辻遺跡であったと考えられています。


●朝鮮半島側の最前線基地とそこに眠る弥生人たち


 この原の辻遺跡を出た船は、どこに向かうのでしょうか。対馬に寄って、それから朝鮮半島に渡りますが、釜山(プサン)ではなく晋州(チンジュ)と呼ばれる朝鮮半島の南海岸...
テキスト全文を読む
(1カ月無料で登録)
会員登録すると資料をご覧いただくことができます。